第69話 ダグウッド公爵家
はるか東方の森を、数万もの軍勢が行進中であった。
彼らもまた、これだけの軍勢を展開させるのは並大抵のことではない。
既に、フェリックスが展開させていた捜索隊の幾つかは、その波に呑まれていた。
連絡がしばらくはつかないことはままあるので、ダグウッドではその変事はまだ把握されていない。
「ほーら、おにいちゃんよー」
アイリはわりあい、機嫌がいい赤ん坊である。
赤ん坊であるから夜泣きもすればむずかることもあるのだが、あやせばすぐに泣き止む。
子守たちからは手のかからない赤ちゃんで、と言われていた。
ただ、マックスだけにはなつかない。
「もうやだよー。アイリなんて嫌いだ。ほら、見てよ、睨んでいるんだから」
マックスが半ばべそをかきながらそう言う。
過剰反応ではない。
実際、アイリはマックスを嫌悪感丸出しで睨んでいるのだ。
「そんなことないさ、おまえが歩み寄れば、アイリだって」
フェリックスはそう言いながらマックスをけしかけるのだが、マックスが触れたとたん、アイリは火が付いたように泣き喚いた。
「困ったわね」
アビーも首をかしげる。
赤ん坊のすることではある。だがそれだけに生々しい。
マックスが地味に傷ついているのは分かる。
マックスの何がいけないのだろう。
「もう、アイリなんて知らない!」
ぷんぷんしながら部屋を出て行くマックスを、フェリックスもアビーも止めようがなかった。
「何がいけないのかしら。魔力? 大きさ? 私にはよく分からないけど、フェリックスとマックス、どちらが魔力は大きいの?」
「うーん。ぱっと見、僕の方が大きいけど、マックスはどうも圧縮しているようだからね」
「圧縮?」
「あれ、無意識だよ。圧縮しないと収まりきらないんだ。そうなると、マックスの方がはるかに…」
「アイリは?」
「今のところは、魔力はあんまり感じない」
「そうなのよね。フェリックス理論なら、少なくともフェリックスくらいの魔力はあるはずなのに」
「そうだね。でも僕の理論が正しいとも限らない。魔法や魔力のことはほとんど分かっていないんだ」
「アイリのことは見守っていかないと。でも今は、マックスのことよね」
「あれは辛いよね。僕が、アイリにあんな態度をとられたらへこむなあ」
「フェリックスだったら、10年は浮かび上がれないわよね。あの程度で済んでいるだけ、マックスは強いとも言えるけど」
「…強すぎるかもね」
「…言いたいことは分かるけど…今、それを言う?」
マックスにはどこか酷薄なところがある。突き詰めて言えば、マックスにとって大事な存在など何一つない。
すべては気に入りの玩具のようなもので、快、不快はあるけれど、そこには愛情はない。だから不愉快になることはあっても、本質的には傷つかない。
「ダグウッドをマックスに任せて、大丈夫だろうか」
マックスは見かけも態度も洗練された貴公子である。だがそれだけだ。
ロレックスとセイラムは会えば喧嘩ばかりしている兄妹だが、二人が互いを思いやっているのは明らかだ。
マックスは、フェリックスにもアビーにも、子供らしい従順な態度、時には従順ではない態度を示すが、そこに愛情があるのかと言われれば、フェリックスにはどうも自信がない。それはアビーも同じことを感じていた。
「ダグウッドには男子はマックスしかいないわ。それに悪いことをしたわけでもないのに、継承から外すことは出来ないわよ」
「それは分かっているさ。ただ」
「言ってもどうにもならないことよ。口にしてしまうことで ― マックスを手放してしまうことになるわ」
「そうだね」
フェリックスとアビーには本当は分かっている。家族だから。アイリは、マックスの酷薄さを感じ取っているのだと。アイリの方に原因があるのではなくて、マックスが異質なのだと。
マーカンドルフやガマでさえ感じ取れない違和感。あの、鋭いアンドレイやキシリアでさえ、微塵も感じ取れない違和感。人を見る目があるマダム・ローレイでさえ感じることが無い違和感。
近い家族だからこそ、フェリックスとアビー、そしてアイリだけが感じている違和感。
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遠い遠い過去。
古く名高い国々が、まだかけらもなかったむかし。
『◎△$♪×¥○&%#』
『◎△$♪×ナ¥ジ○&%#』
『◎△$♪×ナ¥ジ○ヲナノレ』
『ナンジガナヲナノレ』
ようやくピントがあってきたようだった。
不揃いの石で囲まれた冷たい部屋。
光る魔法陣の上にその青年は立っていた。
「ここは…どこだ?」
青年は暗がりの中で、周囲を見渡す。
右腕に抱えていたはずの重さが無い。
周囲を焼き尽くしていたはずの業火が無い。
「ここはどこだ! 息子をどこへやった!」
『ナンジガナヲナノレ!!!!』
ふいに強い圧迫を感じて、青年は冷たい石敷の床にひれ伏す。
「くっ、俺の名を知りたいのか…」
『ナンジガナヲナノレ!!!!』
「俺の名は…ハヤト」
青年が、ハヤトが名を名乗ると、その部屋を見下ろす張り出しに明かりがつき、二人の男が浮かび上がった。
「かの者の真名のようでございます、陛下」
「成功だな。勇者よ! 勇者ハヤトよ! そなたはこの世界を救うべく召喚されたのだ。勇者となり、人類を救うのがそなたの使命。魔族を滅ぼすがそなたの使命とこころえよ!」
「勝手なことを! 俺を戻せ! うぐぅ!」
強烈な痛みに、ハヤトはうずくまり、喘いだ。
「そなたに拒絶する権利などないのだ。真名を握られた以上、そなたは我が傀儡。勇者として働いてもらうが、悪いようにはせぬ。使命さえ果たせばよいのだ。使命さえ果たせば、地位でも爵位でも女でも望むがままに与えようぞ」
「陛下は寛大なお方。しかし増長するではないぞ。心してお仕えせよ、勇者ハヤトよ」
意識を失う中で、ハヤトはただひとつの大事なものを思った。
あの子は、あの業火の中を生き延びられただろうか。
手を引く父親の手を失って。
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1945年3月10日未明。
世に言う東京大空襲では、死者行方不明者は10万人以上生じ、その中の一人が、そこではないどこかへ消失したとしても、誰も気づく者はいなかった。
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