勇者編
第67話 公爵令嬢
「叔母様、お身体は大丈夫?」
「ごめんね、セイラム。あなたにも厄介をかけてしまって」
「いいのよ。私も今はダグウッド市民だもの」
同盟戦争終結から、七か月後に、アビーは第二子となる長女を出産した。当然、妊娠初期に前線で戦っていたことになるが、もともと生理不順なこともあって自覚症状が無かったのである。
戦勝の余韻も覚めぬ中の慶事に、ダグウッドは沸きに沸いた。ヴァーゲンザイル一族でも久し振りの新生児誕生だったが、あれ以来、ヴァーゲンザイル公爵夫妻、ギュラー公爵夫妻は王都にあって、新しい姪には会いに来られないでいた。
マックスを産んだ時には、悪阻一つなかったアビーだが、今度の出産は体力をかなり奪ったようで、生き死に関わるわけではないが、まだベッドから起き上がれずにいた。
代わってダグウッド公爵家中を差配しているのはセイラムである。セイラムはイアン・ヒューゲンロックと結婚したことから平民籍になっていたが、元はヴァーゲンザイル辺境伯爵家令嬢である。まがりなりにも家中を差配するための教育は受けている。
フェリックスは別段、正式にリタイアしたわけではないが、財閥の業務の大半は、モンマルセルとイアンに振ってしまい、モンマルセルは王都に常駐するようになっていた。
イアンは姪婿ではあるが、ダグウッド市民でもあることから、将来的には財閥の後継者にしてもいい、とフェリックスは考えていた。セイラムにもそのつもりでイアンを支えるように申し渡してある。マックスに公爵家と財閥のふたつを統御させるのは重荷すぎるだろう。
公爵家に爵位が上がったダグウッド家だが、ファンケル荘を回復し、その外交はマダム・ローレイが王都でとりしきっている。日常業務の決済は、マーカンドルフとマックスに振ってしまったので、フェリックスはかなり身軽になっていた。
同盟戦争直後のフェリックスの落ち込みようを周囲は知っているので、まあ、このまま身軽になるならそれでもいいんじゃないかと、責任の肩代わりをするのに文句も言わなかったが、マックスは例外である。
「僕はまだ子供だよ? 子供をこんなに働かせていいの?」
と不平顔であったが、アイス消費量を増やすことでなんとか折り合いをつけている。その彼も、フェリックスは結婚した年齢まではもうあと何年もないのだが。
フェリックスは、娘のところに入り浸るか、マルイモ農場でマルイモ改良に精を出すかで、笑顔も取り戻していた。
さて、フェリックスとアビーの娘だが、フェリックスの考察が正しければ魔法使いであるはずだが、今のところはその兆候は見えなかった。
名前は、アイリスから名を貰って、アイリスと言うのだが、区別するためにアイリ、と呼ばれていた。
「じゃあ、私、アイリの顔を見たら、マーカンドルフに会って雑用を片付けてくるね」
「あ、セイラム。アイリのところにはロレックスが来ているらしいの」
「また? ヴァーゲンザイルを放っておいて何をしているのかしら、バカ兄貴」
アイリが生まれてから、毎週、ロレックスはダグウッドを訪れていた。従兄妹なのだから顔を見に来るのは一度は当たり前だ。近隣諸侯としては礼儀でもあるだろう。ギュラー公爵家領経営に忙しいエルキュールも来たのだから、ロレックスがくるのも当たり前だった。
だが、それが毎週となれば話は別である。
ヴァーゲンザイル家も公爵家に上がり、旧レドモンド公爵領の半分、北部に転じることになったアイルダー准男爵家領などを組み込んで、足固めをしなければならない時期である。
外交交渉はアンドレイに任せるとしても、アンドレイとザラフィアが不在中の領地経営はどうしてもロレックスに委ねられることになる。
「ずいぶんな言い草じゃないか、セイラム。おまえこそさっさと働いたらどうだ」
そう言いながら、ロレックスが侍女に案内されて、入って来た。公爵夫人の寝室である。いくら甥とは言え、他家の青年が入って来る場所ではなかったが、アビー付きの侍女は、ダグウッド家が最初に雇った女中で、ロレックスを赤ん坊の時から知っている。甥姪の中で、ロレックスをアビーが特に気に入っていることを承知しているので、当然のようにロレックスを中へと入れたのだった。
「呆れた。レイディの部屋にのこのこ入って来るなんて、ヴァーゲンザイルの家名が泣くわよ?」
「叔母上は気になされないよ。そうでしょう? 叔母上」
「ええ、まあ。もう戻るの?」
「はい。さすがに仕事もありますから。マックスも愚痴を言いながら頑張っているようですし。でも、また来ますから」
「ちょっと、バカ兄貴。真面目な話、今、のこのこ出歩く場合? もう来なくていいわよ。ここには私もイアンもいるんだから」
「うるさいな。叔母上のご容態が心配な僕の気持ちがおまえに分かるか」
「どうだか。誰かさんに振られてハートブレイクなやさぐれた気持ちを可愛いアイリの笑顔で慰めてもらっているだけでしょ? そんなのみんな知ってるんだから」
「み、みんなって、ちょ、おまえ、なにを言って」
「あーら、みんな知ってるわよ。父様も母様も、キシリア伯母様もコンラート伯父様も、フェリックス叔父様も、エルキュールとジュノーもね。マックスは…あの子はわりと大抵のことには無関心よね…。でも、ねっ、叔母様もご存知よねえ?」
「えっ、ええ…まあ。ロレックス、その、お相手の方もお立場があるから、好きと言うだけではどうにもならないことがあるのよ。そこはもう、お互いのために踏ん切りをつけないと」
実際にはエレオノール女王はロレックスのことはもう大して好きではなくなっていたのだが、そしておそらくそうなんじゃないか、とアビーも察してはいたのだが、それをロレックスに突きつけるには、まだ、未練満々の姿を見れば酷過ぎた。
「くっ…」
ふいに涙を浮かべたロレックスは顔を背けた。
「あーあ、本当情けない。顔だけできゃーきゃー言っている女の子たちに見せてあげたいわ、この無様な姿を!」
「ちょっと、セイラム。言い過ぎよ」
げに、世において最も容赦がないのは兄に対する妹である。
「そ、そうだぞ、セイラム、言い過ぎだぞ。あーあ、イアンが実に気の毒だ。こんな鬼嫁を押し付けられるなんて」
「誰が鬼嫁ですって!?」
「おまえだよ! おにー! おにー!」
「ちょっと、二人とも、私、体調が悪いのだけど…」
アビーもそう言えば、気弱でネガティヴ思考に陥りやすいフェリックスをずいぶん叱咤激励してきたものだ。いや、叱咤激励と言えば聞こえはいいが…。ノロマ、と言ったこともある。意気地なし、と言ったこともある。臆病者、と言ったこともある。
(ロレックスのうじうじぶりはヴァーゲンザイルの血筋よね。フェリックスもそうだもの)
そう思うアビーだった。
「くっ」
泣きながら部屋から走り去ったロレックスは、一仕事を終えて意気揚々と食堂に向かうマックスとかちあった。
「あ、ロレックス。まだいたんだ。これからアイス、食べるんだよ。一個、あげるよ。一緒に食べよう」
アイスをあげるというのはマックスにとっては最大級の親愛表現である。
「…三個食べたい」
「えっ…三個は、僕の分が減っちゃうからそれはさすがに…」
「…三個食べたい」
「えっ? えっ? ロレックス、お兄さんだよね? 子供じゃないんだからわがままは言わないんだよね?」
「…三個食べたい」
「ロレックス、いいの? 本当にいいの? このいたいけな子供からアイスを奪って本当にいいの? 後悔しない? 一生悔やまない?」
「…三個食べたい」
「くっ、ころ」
今まで一人っ子だったマックスも、我慢することを覚えていくべきだ、とロレックスは思った。そう、いずれ、彼にも妹という暴力が注がれることになるのだから。
アイスはとても美味しくて、ナメクジのように這いつくばって号泣しているマックスを後目に、七個もアイスを食したロレックスであった。
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