第66話 象は忘れない

 遠いむかし。

 フェリックスの中の人は、ヨークシャーテリアを飼っていた。小型犬ながら元気満々の犬種で、散歩を欠かすわけにはいかない。ある日、住んでいた地域を台風が直撃して、木は倒れるわ、海は荒れ狂うわ、大変な様相だったのだが、台風の目に入ったのを見計らって、犬を散歩に連れて行ったことがあった。

 犬飼いたちは同じことを考えるようで、葉っぱや枝や立て看板やらが散乱する散歩道を、何組もの犬と飼い主だけが急ぎ足で歩いていた。

 あの、妙な静けさ。


 どこかその静けさに似ている、とフェリックスは思った。


 ヴァーゲンザイルに入ったエレオノール内親王によって、正式に内戦の終結と、自身の女王即位が宣言されて一ヶ月。委ねられるものは他人に委ねて、ようやくヴァーゲンザイル勲功騎士爵家最高幹部たちがダグウッド城に揃っていた。

 フェリックス、アビー、マーカンドルフ、ガマ、ルークの5名、カイ・テオフィロスの名が欠けている。

 ヴァーゲンザイル辺境伯爵アンドレイ、ギュラー辺境伯爵夫人キシリアを含めて、今、同盟諸侯のほとんどは、新女王の正式な即位式に出席するために王都に出ている。

 ダグウッド家からも人を出すべきであったが、今、フェリックスの状況はそんな場合ではないということで、引き続きマダム・ローレイに全権を預かってもらい、彼女に対処してもらうことになった。

 王国宰相の地位にはレドモンド公爵がつき、彼の指導の下、真っ先に賞罰委員会が結成されている。北部諸侯はすべて爵位没収、西部諸侯の半分はそうなることは決定しているが、それ以外の賞罰についてはこれから決定される。

 マダム・ローレイにはダグウッドの権益を確保するため働いてもらわなければならない。とは言え、ダグウッドとしては別に領地をもらっても有難迷惑なので、国内流通の無関税特権、鉄道施設地域の割譲に的を絞って動くことになる。

 女王の内意として、ヴァーゲンザイル家、ギュラー家、ダグウッド家は公爵に上る見込みであり、領地貴族と宮中貴族の区別は廃止され、レドモンド公爵家はレドモンド大公家となる予定だった。レドモンド大公家は西部において、これまでの領地の3倍以上の領域を与えられて移動する見込みであり、旧レドモンド公爵領は、ヴァーゲンザイル家とギュラー家で分割されることになるだろう。

 それ以外の他家については、爵位は動かさずに分家を創設し、それに新たに領地を与える処理がなされる予定であり、ブランデンブルク公爵家、リュクサンブール公爵家ではそれぞれ次男に北部において伯爵家の創設が許諾される予定である。それ以外も似たような処理であった。

 マダム・ローレイには、ダグウッド財閥からモンマルセルとイアン・ヒューゲンロックが補佐として同行している。ちなみに王都にいたヒューゲンロック氏は無事で、アンドレイと協調しながらさっそく目まぐるしく動いていた。


 どこか重い空気の中、リタイアをしたい、とフェリックスが口を開こうとしたその瞬間、


「すんまへん。忘恩なのは分かっておりますけど。この際、商会からも財閥からも、このお家からも身を引かせていただきたいと思ってますのや。頂いた爵位も返上したいんや」


 とガマが先に言った。

 数秒、みなが呆気にとられた後、


「理由を聞かせて貰っていい? ダグウッドが寒村だった時から一緒にやってきたあなたに抜けられるのは、悲しいわ」


 とアビーが言った。

 そうすると、たちまちガマが号泣して、嗚咽を上げた。


「不義理なのは重々承知しておりますけど。ぼんのこれからを支えたい気持ちもあるんやけど。わしよりはるかに若い、子供の時分から知っているカイがあないなことになってしもうて。当人が望んでのことやと言うのは分かっとるんやけど、なんでわしがお貴族様をやってられましょうか。わしがもそっとしっかりしておったら、カイにあないな役目を引き受けさせんで済んだものを。堪忍してや。わしにはもう耐えられんのです」

「それは違う」


 低い声で、フェリックスがそう断じて、ずっと押し黙っていたフェリックスが口を開いたことに驚いて、みな、フェリックスを見た。


「カイを死なせたのは僕だ。ガマには関係ない。この責任は僕がずっと背負っていく。ガマには横取りはさせない」

「閣下。人にはそれぞれ役目があるのです。誰がいい悪いというものではありません。先のことは見通せぬから人なのです。いくら閣下と言えども何もかもを背負い込もうというのは傲慢なのではないでしょうか」

「マーカンドルフ。僕はただの人じゃない。傲慢ならば傲慢なんだろう。だけど僕は知っている。僕は卿に ― 卿だけでなく僕が救ってきた多くの人たちに、人生の意味を与えることが出来た唯一の存在だ。あの時、僕は卿に言った。選びたまえ、と。そしてカイも選んだんだ。今度のことはその必然に過ぎない」

「指導者とはそういうものですよ、フェリックス。どれほど疲れ果てても、あなたには休息は許されていないのです」

「ルーク」


 ルークのその言葉に、アビーはルークをきつく睨んだ。


「フェリックスだって? あなたの都合のためにいいように使わないで」

「ありがとう、アビー」


 フェリックスは微笑んだ。


「でも、目が覚めたかな。僕がふらふらしていたら、カイがなんのために死んだのか。そして、ノエルが何のために死んだのか。ガマ」


 フェリックスはガマに向き合った。


「はい」

「僕は指導者だ。そして卿はそうじゃない。今までありがとう。これは僕が始めた物語だ。これ以上、卿が重荷を背負う必要はない」

「ほんに…申し訳ありません」

「いや、いい。卿はこれからどうするつもりだ。無論、何をしてもカネに困ることはあり得ないだろうが」

「…セオリナが、カイの妻が見つかってへんようです。万事遺漏のあらへんカイがやること、暴動にまきこまれたとは思えへんのや。あちこちを回って探してみよう思てます。ほんで見つかったやったら、罪滅ぼしちゃうんやけど、カイに代わって見守っていきたいと、そう思てます」

「そうか…それは…僕からも頼む」

「はい。しっかと」


 ここからまた、ボーデンブルク王国の新しい歩みが始まる。

 そしてダグウッドも、また。


 その後は、ザイール城から最後に放たれた光弾の件、アグネスたちと連絡がつかない件、マクシミリアンの覚醒の件が話されたが、どれも今この時点で結論が出るような話ではなかった。


 会議が終わって、マーカンドルフ、ガマ、ルークが退出した後、アビーがフェリックスの椅子に近づいて、そっと肩を抱いた。


「ねえ、フェリックス」

「うん?」

「確かに、マルイモの栽培が成功して、大喜びしていた頃が一番楽しかったわね。あの頃に戻りたいと思うことがないわけじゃないわ」

「そうだね」

「でも、今まで積み上げて来たものを、壊したいとも思わないの。それが私たちの人生だから」

「ああ」

「ねえ、知ってる? 象って、何もかもを覚えているのよ。絶対に忘れないんだって」

「そんなことを聞いたこともあるけど」

「でもね。人間は忘れられるのよ。象じゃないんだから、いつか忘れられる。ありがたいことに」


 アビーはそう言って、久し振りにフェリックスに口づけをした。


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【お知らせ】

異世界辺境経営記、内戦編はこれで終了です。次回からは最終編として勇者編が始まります。是非、最終話までお付き合いくださるようお願い申し上げます。

SNSには不慣れですが、twitter を始めました(今までやっていなかったので、ゼロからのスタートです)。

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