第53話 真実の時

 ダグウッド城前広場には数万の民衆が押し寄せていた。それだけでも物凄い数であったが、そこだけではダグウッド70万の人々を収容することは出来ない。70万という人口はこの世界では、小王国並の規模であった。ダグウッドへの流入はなおも続いているし、豊かで安定したダグウッドでは出生率も高い。おそらく10年後には、少なくとも15年後には、人口は100万人を越えるだろう。

 地球知識で医療を普及させることについては、生態系を致命的に破壊するおそれがあるので、フェリックスの中の人が医療関係者ではなく、専門的な知識がないということもあって、フェリックスは必ずしも積極的ではない。

 しかし、ダグウッドが蒸留酒の産地であるということも踏まえて、出産時の消毒殺菌は徹底させるように指示してあり、新生児および妊婦死亡率は激減していた。人口爆発を懸念すべき段階になっているが、ダグウッドの場合は広大なフロンティアが後背地にあるので、少々のことはイケイケドンドンでなんとかなる。


 ダグウッド市各地にある広場、野外劇場、公園もダグウッド市民で溢れていて、高価な魔導拡声器が取り付けられていた。これは一台数億デュカートもする貴重品で、ベイベル辺境伯爵領にあるベイベル魔導工芸社によって開発されたものである。同社はダグウッド銀行の融資を受けて起ち上げられた企業で、ダグウッド銀行の資本的な支援を受けてはいても、ダグウッド辺境伯爵家が関与しているわけではない。ダグウッドだけではなく各地で、自動的に産業革命が起きつつあることの証左のひとつであった。

 ベイベル魔導工芸社は他にも多くの魔道具を開発していて、価格的な理由で一般向けではなかったが、あくまで孤立した職人たちが芸術として魔道具を作っていたこれまでと比べれば、開発速度も、市場に卸される商品の数も桁違いになっていた。

 ダグウッド辺境伯爵家は同社の最大の顧客であり、売り込みをかければ必ず購入してくれる良いお得意さんである。


 フェリックス・ヴァーゲンザイル・ダグウッドを知らない者は、ダグウッドにはもちろんいないのだが、既にダグウッド村時代以来からの旧住民の割合が小数点以下のパーセンテージになっているダグウッドでは、フェリックスと話したことがない者が大半で、ほとんどはその声を知らなかった。

 肖像画は町のいたるところに掲げられているので、姿かたちは知られていたのだが。

 肖像画と言えば、肖像画に限らず、フェリックスの銅像、石像、石膏像で埋め尽くされているダグウッドである。当初はこの個人崇拝そのものの措置に、フェリックスは強く抵抗した。


「いやいや、毛沢東じゃないんだから」


 と言ってみたが、むろん誰にも理解はされなかった。これについてはダグウッド家臣団郎党のみならず、ギュラー辺境伯爵夫人キシリアも、それは是非やるべきだとフェリックスに迫ったので、フェリックスも嫌々受け入れた、という経緯がある。

 陳腐で俗物そのもののやり口だが、集団をまとめていくうえで効果があるのは確かなのだ。

 これに限らず、フェリックスは案外、強いリーダーではない。下が一致団結して申し合せれば、だいたいはそれに従うことが多い。譲れない部分で譲ることは滅多にないが、フェリックスの場合、99%は譲れる部分である。そもそも、ダグウッド家の家臣郎党はフェリックスの思想に沿って形成されてきたものなので、徹底的に意見が反するということはまず無い。

 押し出しが弱いのは、兄たちの顔色を伺いながら育ってきた末っ子気質のなせる業であった。


 フェリックスが民衆の前に姿を晒したのは、10年以上前のダグウッド百貨店のオープンセレモニーの時以来で、演説などしたことがない。

 今回それをすることになったのは、命を差し出してもらうことになるからである。


「ごきげんよう。私はダグウッド辺境伯爵、フェリックス・ダグウッドである」


 ダグウッド城のバルコニーに立ったフェリックスがそう声を発した時、ダグウッド全域から市民たちの怒号のような歓声が沸き起こり、フェリックスは恐怖を覚えて、動揺した。


「フェリックス」


 アビーが小さくそう声をかけて、フェリックスのかたわらに立ち、手を握った。汗をかきながら、フェリックスは頷いた。フェリックスは覚悟を決めて、話を続ける。


「私がダグウッドの領主になった時、ここは貧しい寒村に過ぎなかった。先代の領主の晩年から、ダグウッドの経営を預かって、様々な策を施してはいたけれど、結果が出るまでには、7年以上かかった。

 せめて、あと2年早ければ、1年早ければと、悔やまない日は今でもない。

 ノエルという少年がいた。

 新しいことを始めた私を支えてくれた子だった。ダグウッド家の最初の協力者だ。貧しかった彼はやがて郷里を離れなければならなくなり、その時の私は彼を助けるだけの力が無かった。

 たった一人の貧しい少年、それも私を助けてくれた少年、その時の私にはそれさえも助けるだけの力が無かった。どうか知って欲しい。このダグウッドが、そういうところから始まったのだと。

 数年後、とある場所で私とノエルは再会した。ノエルは ― 盗賊に身をやつしていた。もちろん、どれほどの苦難があっても、法を犯さずに一生懸命に生きている人はいる。そういう人の方が多いだろう。

 でも思い起こしてほしい。あなたがたの人生の中で、あなたがたの知り合いや友達の中にたった一人のノエルもいなかっただろうか? 若い世代には分からないかもしれない。ここ、新しいダグウッドで生まれ育った子供たち、ダグウッドの成長と繁栄しか知らない子供たちには、理解できないかもしれない。

 けれどもあの頃は、人の命が安いのは当たり前だったのだ。

 ダグウッドを大きくし、財閥を経営し、人は私の野心がどこにあるのか、疑いの目を向ける。はっきりとそう聞いてくれたならば、答えは簡単なのに、なかなか聞いてもくれず、邪推されるばかりだ。

 私の目標は何かと言われれば、答えは呆れるほど単純だ。

 二度と再び、ダグウッドからノエルのような貧しさのせいで盗賊になるような少年を出しはしない。

 二度と再び、人間の命がかくも安く扱われることを許しはしない。

 そしていつの日か、ダグウッドだけではなく、ボーデンブルクから、この世界から、貧困を追放する。

 これがダグウッドの大義だ。私はこの大義を守ることを、わが友、ノエルの名において誓う。

 そしてこの大義の下、あなたたちはダグウッド市民となってくれた。

 だからどうか知って欲しい。人の命の重さをどうか知って欲しい。命の掛け替えのなさをどうか知って欲しい。

 人間として生まれてきた命が、散らされることもなく、虐められることもなく、ゴミのように扱われることもなく、それぞれが幸福を追求できるのだということを知って欲しい。

 一介の勲功騎士爵家だったダグウッド家は今や辺境伯爵家だ。公爵家になったとしてもおかしくはなく、事実、状況がまだ平穏だった頃はそういう話もあった。

 ダグウッド財閥は隆盛を極め、当家は富み栄えている。

 しかしそんなもののためにあなたがたは命をかける必要はない。私には愛する家族がいる。妻がいて、息子がいる。しかし辺境伯爵家など、用が済めばなくなってもいいのだ。蓄えた富も、目的のためには失っても構わないのだ。

 私が息子に伝えたいものはそんなものではない。私があなたがたの助力をお願いするのはそんなものを守るためではない。


 さて、ここ北東部では比較的平穏が保たれているがその外では戦争と粛清で世が乱れに乱れていることを知らない者はいないだろう。

 ケイド親王が国王陛下を始めとする王族を監禁し、おそらくは少なくとも何人かを殺害せしめている、それだけであれば、私はダグウッドの同胞たちに呼びかけることはしなかっただろう。

 無論、私はダグウッド辺境伯爵であり、当家はダグウッド辺境伯爵家である。陛下の臣として簒奪を容認することは出来ない。しかしながらそれはフェリックス・ダグウッド個人の義務である。辺境伯爵家の私的な義務である。

 ダグウッド家が直接雇用する騎士たちしか動かすことはしなかっただろう。費用はダグウッド政府とは別計上の、ダグウッド家の家計から出すことになっただろう。

 国王陛下の臣としては見過ごしには出来ないとしても、王位簒奪など何もこれが初めてのことではなく、ケイド親王が勝てばケイド親王が王になるだけの話である。それだけの大事を為すのだ、むしろケイド親王は凡百の王族よりは有能かも知れない。

 そうなった場合、私は貴族の務めとして戦うが、あなたがたにはそれに付き従う義務はない。論理的な整合性もない。私が敗れたとして、フェリックス・ダグウッドが死んでも、ダグウッド辺境伯爵家がとりつぶされても、ダグウッドは残る。ここに生きる人々は残る。その人々の仕事は残る。

 だが、ケイド親王はそのようなただの王位簒奪者ではない。

 かの者はすでに数度に及び、民衆を虐殺している。数十万の民を殺害している。子供や赤子の中に、ケイド親王に剣を向ける者がいたとでもいうのだろうか。

 これはケイド親王のみの犯罪ではない。

 戦争だから当然だと言う者もいる。

 一歩間違えれば、自分たちに矛先が向けられる立場の民衆でさえ、そう言う者もいる。一人二人ではない。十人、千人、一万人、十万人。

 どこか似ていないだろうか。貧しい農民の余りの子など、死んでしまって当然だとしていたダグウッド以前にどこか似ていないだろうか。わが友ノエルを盗賊に追いやって気にも留めなかったかつての私たちとどこか似ていないだろうか。

 どうか分かって欲しい。

 私たちが立ち向かわなければならないのは、まさしくこうした考え方そのものなのだ。人の命を軽く扱う、その生き方なのだ。

 ダグウッドがそのような者たちと相容れることは決してない。

 そのような者たちが変わらない限り、ダグウッドがそのような者たちと道を同じくすることは決してない。

 これは私たちダグウッドの、生き死にの問題なのだ。

 隣人を愛し、人生を楽しみ、どのような人種であっても共に働き、平和で豊かな場所で、安んじて子供を育てて行く。それはダグウッドの大義であり、ダグウッドそのものである。

 ダグウッドは北東部諸侯、東部諸侯と共に、エレオノール内親王殿下の下、ケイド親王およびその軍と戦うことになる。利益がかかっているのではない。誰が王になるのか、王位がかかっているのではない。

 私たちの生存がかかっているのだ。

 同盟諸侯の大半が、ケイド親王の軍門に下ることがあるとしても、ダグウッドが戦いを止めることはない。

 わが兄、ヴァーゲンザイル辺境伯爵、ギュラー辺境伯爵が万が一、ケイド親王の軍門に下ることがあっても、ダグウッドが戦いを止めることはない。

 仮に、西岸を占領され、東岸に踏み込まれることがあったとしても、私たちは更に東方に移動し、戦いを継続するだろう。

 私たちがケイド親王に与することは絶対にない。

 なぜならば、ケイド親王を倒さない限り、私たちが護るべきものを護れないからだ。それは隣人を愛し、家族を愛し、誰をも切り捨てることのない、ダグウッドという私たちの故郷そのものだ。

 ダグウッドの同胞よ。同志たちよ。あなたがたの力を貸して欲しい。私は数々の点で力の及ばぬ領主だが、それでも選んで私をあなたがたの領主に相応しいと認めていただけるならば、どうかこの危急存亡の時にあって、あなたがたの力を貸して欲しい。

 あらゆる虚飾を取り払って、今こそが真実の時だ。聳え立つ瀟洒な建物、富によって築かれた楼閣、そんなものをすべて取り払っても、なお、私たちの胸の内に残る力があるはずだ。

 それは意志の力だ。それこそがダグウッドの真実の力であり、真実の輝きだ。

 私はあなたがた一人一人が、その力を、その輝きを持っていると確信している。

 ダグウッド領主、フェリックス・ダグウッドは、生命を賭して私たちの大義、私たちの理想、私たちの責務を守らんことをここに宣言する。

 あなたがたが、この領主と共にあらんとしてくれるのであれば、賛意の声でもってその証として欲しい」


 フェリックスがそういった時、まさしく感情が激流となって人々は獣のような雄たけびを上げた。怒号は大地を揺らし、風を起こすほどであった。


 フェリックスは右手を掲げて、静寂を求めた。

 それに気づいて人々は口をつぐみ、まるで誰一人存在しないかのような静寂に包まれた。


「今この時から、ダグウッドは戦時体制に移行する。ダグウッドは、ダグウッドの名と共にあるに相応しい者たちが全力を尽くさんことを期待する。勝利のその日まで」


 再びダグウッド中が爆発的な咆哮に包まれた。

 泣いていない者はいない。

 フェリックスはきびすを返して、バルコニーを後にしたが、側近たちもみな号泣していた。

 その中でただ一人、表情をまったく変えることなく、仏頂面をしている男がいた。むしろ不機嫌そうであったという点においては、平常だったとは言えないが。

 その男は、フェリックスに近づいてきて、顔を近づけて囁くようにして言った。


「まったくあなたには驚かされる。どう見ても公での演説など、あなたの柄ではないのに、それすらもこうも見事にやってしまわれる。ごらんなさい、あの民衆の興奮を。あいつら、あなたのためなら、死に急ぎますよ?」

「ルーク。死に急がせることがないようにするのが卿の任だろう。軍のことは卿に委ねてあるのだから。僕の民を一人たりとも無駄死にさせるなよ」

「閣下。いや、フェリックス。人には向き不向きがあるのですよ。あなたは民衆の前でカリスマ指導者を演じるのに明らかに向いていない。にもかかわらずやり遂げました。それは不自然なのですよ。あなたは ― いったい何者です?」


 フェリックスはその問いに答えなかった。今頃になって脂汗が噴出して、よろけるようにして壁に手を突いた。脚ががくがくと震えていた。


「ルーク、お話はまた後で。さ、フェリックス。少し休みましょう」


 アビーが、二人の間に割って入り、フェリックスの背に手をまわし、そっと支えた。そしてフェリックスを支えながら、奥の間へと、夫婦しか入れない部屋へと消えたのだった。

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