第41話 王都情勢

 ヒューゲンロックもめっきり老けていた。フェリックスが初めて見た時から10年が過ぎているのだから、10年分老けるのは当然なのだが、ここ数ヶ月の老け込み具合は尋常ではなかった。

「懇意にさせていただいている顧客たちが大変な目にあっていまして。今は王都を離れるべきではないかとも思ったのですが、この機を逃せば、お伝えする機会もあるいはなくなるかと」

 ザラフィアが自ら立ち上がって、この老人を席に着かせる。ヒューゲンロックの孫のイアンとヴァーゲンザイル辺境伯爵令嬢セイラムは先日、正式に婚約した。またヒューゲンロックはダグウッド銀行の副頭取でもある。

 どのような意味においても、この老人は身内であった。

「国王陛下、副王陛下は数ヶ月来、姿をお現しになっておられません」

 うむ、とアンドレイは頷き、ヒューゲンロックにそのまま話を続けさせる。

「ケイド親王は最高軍事権インペリウムを委ねられると直ちに、外国のスパイの摘発に乗り出しました。また、摂政王太子に任じられ、国王陛下と副王陛下は安全確保の名目で王宮深く、隔離されています。当然、反対の声はあったのですが、プファルツェンベルヒ侯爵が突撃隊総監に任じられ、反対派を捕縛しています」

「アヴェラード王家が狙い撃ちにされているのでしょうか?」

 キシリアが問うた。

「いいえ。これがいいことなのか悪いことなのか判断がつきかねますが。ケイド親王は等しく暴虐であらせられます。ゾディアック王家も国王派の人々は…。亡命を望む貴族も多いのですが、受け入れ先と言えば」

「ダグウッド、か」

 フェリックスがそう言えば、ヒューゲンロックは頷いた。

 今のところ、外形上、ケイド親王の統治は合法である。北東部諸侯が表立って敵対することを決意したのでなければ、王都貴族の亡命は受け入れられない。

「ダグウッド辺境伯爵閣下には彼らを受け入れるご用意はありますか? 私のところにも矢のような催促と問い合わせがありまして」

「今は無理ですね」

 フェリックスがそう言えば、ヒューゲンロックは頷きながらもため息をついた。

 北東部諸侯はそう簡単にはケイド親王に呑み込まれることはない。だが、王都貴族や他の地方の諸侯のために戦う義理もない。両勢力は互いににらみ合いながらも、それぞれに我が身大事のために相互不干渉で手を打つ、そういう外交的解決もあり得なくもない。

「こちら様の決断が遅くなればなるほど、ケイド親王には有利になりますが?」

 ケイド親王は表面的な合法性を盾に、敵対勢力を各個撃破している状況である。だが、こちらには、法的な正統性がない。北東部諸侯同盟の盟主にヴァーゲンザイル辺境伯爵が就くとしても、それが東部諸侯にまで拡大するとしても、正統性を欠いた同盟は脆く崩れやすい。

 盟主が最前線に立って、被害を引き受けるならばまだしも、ダグウッドは一番奥まった場所にあり、ヴァーゲンザイルはそのダグウッドに隣接しているのである。戦争の被害が一番及びにくい場所であって、諸侯を走狗とし、自らは安寧をむさぼるかと非難されかねない。

 帽子の確保に動かなければならない。

「カイ、王位継承権のある王族の名を挙げてくれ」

 フェリックスが、カイにそう言えば、カイは頷く。諳んじているのである。基本的なマインドは、カイは理系なのだが、ダグウッド辺境伯爵家の冢宰を務めるにあたって、歴史や政治などの文系的な分野についても精通するようになっていた。

「アヴェラード王家では、エンギラス副王、ロマリエス親王(副王太子/第一王子)、ミラルス親王(第一王子長男)、ナペミン親王(第一王子次男)、トリンツェル親王(第二王子)、パレレオ親王(第三王子)、ヘンヴィルゴ親王(第一王弟)、ボリブラ親王(第一王弟長男)、フィリオン親王(第二王弟)です。

 ゾディアック王家では、ケイド親王(王太子/第一王子)、ルクレツィオ親王(第二王子)。

 ケイド親王当人以外は、基本的には反ケイド親王派です」

「消息が明らかなのは?」

 アンドレイが引き継いで、ヒューゲンロックに尋ねた。

「いずれも不明です。私が聞いた話ではルクレツィオ親王は既に殺害されているとか」

「それはどれくらいの精度で言える?」

「ほぼ確実なのでは、と。権力の絶対掌握に踏み切った以上、王族たちを生かしておく危険をケイド親王が犯すとは思いません」

「国王陛下と副王陛下は?」

「正統性の根本ですから、今の段階ではまだ殺していないのではないかと」

 アンドレイはため息をついた。

「いまさら言っても詮無いことだけど。この十年、消極的過ぎたかも知れないわね」

 キシリアが言う。

 それも結果論である。ダグウッド財閥は、政治とは距離を置いてきた。経済的にケイド親王派と対抗し得る唯一の勢力だったが、全面対決を避けるため、反ケイド親王派に積極的に加担してきたわけではない。その間、ケイド親王派は主に近衛騎士団を掌握していった。王都における唯一の暴力装置である。

「フェリックスも考えもわかるけど…」

 キシリアはためらいがちに言った。

 フェリックスにとっては財閥が第一である。反ケイド親王派も顧客ならば、ケイド親王派も顧客なのである。財閥当主フェリックス・ヴァーゲンザイル・ダグウッドの利害が、ダグウッド辺境伯爵の利害に引きずられないよう、細心の注意を払ってきた。北部にも、西部にも、ダグウッド財閥で働いている者たちは大勢いる。財閥当主としては、フェリックスは従業員たちを人質にとられている側面もある。

「しかしその考えが、結果的に民衆虐殺をも引き起こし得るフリーハンドをケイド親王に与えたわけだ。フェリックス、それがおまえの言う、経世済民の考えに沿うことなのか?」

 フェリックスは目を閉じたまま、何も答えない。アビーが心配そうにフェリックスを見た。財閥は大きくなり過ぎたのかもしれない。

 ダグウッドの利益とダグウッド財閥の利益は必ずしも一致しない。その齟齬は日に日に大きくなっている。マルイモの増産に喜んでいた頃が、一番楽しかった、とアビーは思う。今は、マルイモ関連事業など、財閥の利益の1%に満たない。

 ダグウッド財閥は統制できているのかどうか。

 フェリックスはどこかで道を間違えたのかも知れない、と今、思っている。転生者として、前世の文明の活用には細心の注意を払ってきた。よかれと思っても、生態系を乱せばろくなことにはならないからである。

 日本人だったからなおのことそう思ったのかも知れない。

 明治維新以後、文明の根幹を変えなければ日本は新しい現実、西欧帝国主義の時代という新しい生態系に適応できなかった。富国強兵をスローガンにして、ただ一心不乱に坂の上の雲を目指さなければ、他のアジア諸国がそうであったように、日本は列強の植民地になっていただろう。

 だが歪なスローガンはちょうどいいところでは収まらなかったのだ。その精神で以て成功体験を積み上げた結果、その精神に対する懐疑主義は機能停止を強いられてしまった。その結果が、第二次世界大戦での敗戦である。

 国であれ組織であれ、興隆する理由と没落する理由は、同じであることが多い。腐敗し、初心を忘れるから没落するのではない。成功体験が他の思考を悪とならしめ、パラダイムの変化に対応できなくなるから没落するのだ。

 フェリックスは、財閥で以て民生を向上させようとした。その目的はおおむね達したといっていい。しかし、民衆の市民意識はそれに応じるほどには育っていない。産業の発展は、相対的な民主主義の発達と同期する。市民意識が育っていれば、ケイド親王がたやすく権力を掌握することもなかったはずなのだ。

 一人一人が自らの主人であるならば、兵に無体な虐殺を権力者が命じたとしても、兵は躊躇うはずなのだ。

 モンテネグロ人は ― そこまで考えて、フェリックスは思う。モンテネグロ人はフェリックスが命じるのであれば何でもするだろうと。それを強制したことはないが、フェリックスが、ダグウッド辺境伯爵家がそれをあてにしているのは事実である。

 ケイド親王とフェリックスの違いは、実はそれほど大きくはない。

「フェリックスよ。ダグウッド辺境伯爵として、わが弟として、盟約の中核としてのおまえを期待してもいいのであろうな?」

 アンドレイは試すようにして、そう言った。

「 ― はい」

 声色は普通であったが、フェリックスがその言葉を、絞り出すようにして言ったことを、アビーと兄弟姉妹たちは理解していた。

 フェリックス・ヴァーゲンザイル・ダグウッドは、財閥当主としては失敗したのである。

「ヒューゲンロック殿、あなたはダグウッド銀行の副頭取です。名誉頭取としては、王都に戻らずにダグウッドに留まることをお勧めします」

 カイがヒューゲンロックに向かってそう言った。

 名誉騎士カイ・テオフィロスは、マーカンドルフの後任として、ダグウッド辺境伯爵家の冢宰になるために、ダグウッド銀行頭取を退いたが、実務は後任の頭取モンマルセルに委任しながらも、名誉頭取として最高経営権をなおも掌握している。

 ヒューゲンロックが王都に戻れば、この先、身の安全が保障されるとは言い難い。今泳がされているのは、ケイド親王がダグウッド財閥との全面対決に踏み切っていないからである。

 だが、早晩、ダグウッド財閥は、ダグウッド辺境伯爵家に引きずられて旗幟を鮮明にせざるを得なくなるだろう。その時にはもう、ケイド親王がヒューゲンロックを見逃す義理は無くなる。

 しかし、ヒューゲンロックは首を振った。

「ヒューゲンロック・オークショニアには従業員もおりますからな。幸い、孫のイアンにはダグウッドの支店を任せておりますから、後顧の憂いはありません」

「…そうですか。イアン殿のことは、このカイ・テオフィロスがきっと支えましょう」

「ありがとうございます。よしなによろしくお願いします」


 会議は重苦しい空気のうちに終わった。二週間後、ヴァーゲンザイル辺境伯爵アンドレイ・ヴァーゲンザイルの主導の下、秘密裏に北東部諸侯同盟が成立した。盟主にはアンドレイが収まることになった。


 ダグウッドへ戻る鉄道馬車の中で、アビーはフェリックスに言った。

「王都のアビゲイル・ダグウッドの支店は閉鎖するわ。ファンケル荘も。従業員と召使たちは、ダグウッドに移住させるわよ。財閥の他の従業員たちは…」

「内々で移住を進める。表立ってはまだ閉鎖はしない」

「そう。でも、アビゲイル・ダグウッドの従業員とファンケル荘の召使たちはの下にある人たちだからね。反対されてもやるわよ」

「反対はしないさ」

「…ねえ、マックスは…」

「何があってもマックスを戦場に立たせるつもりはない。君もだ、アビー」

「私たちがいれば、味方の犠牲は少なくて済むかも知れないわよ?」

「もしそんなことになれば、僕はボーデンブルクもダグウッドも捨てて、君とマックスを連れて別の国に移住する。家族に対する責任が第一だ。優先順位をないがしろにするつもりはない」

「出来るのかしら? アンドレイ義兄さんや、キシリア義姉さんも見捨てて? マーカンドルフやガマやルーク、カイたちを見捨てて? 私は嫌よ」

「アビー…」

「あなたに戦場に立てとは言いません。マックスを秘匿しておくのにも賛成よ。でも私は、味方の犠牲が減るなら、戦場に立って ― 敵を殺すわ」

 フェリックスは答えなかった。

 ただ、流れていく景色を見つめていた。


 

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