第38話 通貨

 最初は小売業から始まった。

「お釣りは通常貨幣で受け取られますか? それともダグウッド銀行券で受け取られますか?」


 ダグウッド銀行券とは何ぞや、と言う話である。

 ダグウッド銀行が発行を開始したクーポン券であり、額面が十万デュカートであれば、銀行に持っていけば、十万デュカートの通常貨幣、つまりデュカート金貨一枚と交換される。

 それだけならば手間がかかるだけで、利用者には何の益もないのだが、ダグウッド財閥企業およびダグウッド銀行券協会加盟店で支払いをする場合、ダグウッド銀行券を使用すれば使用額に応じて1%から3%の割引がなされるのであった。

 つまりダグウッド銀行券は、取引相手がダグウッド財閥関係である場合に限り、通常貨幣より1%から3%増の価値があるのである。

 最初は小売業の客への支払いから始められたが、ダグウッド財閥企業の取引業者への支払い、ヴァンダービル鉄道の運賃の清算、ダグウッド銀行での元金利子の支払い等にも導入され、ダグウッドを中心にして、またくまに利用が広がった。


 割引分は加盟店の損失になるのだが、それについては、ダグウッド銀行が損失補填を行うことになっている。


 これはクーポンと同様、顧客の囲い込みの意味があるのだが、それにしても少額の売買を含めて、取引のたびに1%から3%の損失が計上されるのである。ダグウッド銀行は無謀な試みを始めた、早晩潰れるだろうと噂されたのだが、そうはならなかった。


 ダグウッド銀行券を使える場所があれば、更に言えば、通常貨幣よりも実質貨幣が高ければ、ダグウッド銀行券を手にした者たちのほとんどは、通常貨幣に交換することはなかった。

 あらゆる取引、売買でダグウッド銀行券はダグウッド銀行券のまま、やりとりされるようになり、あっという間に事実上の紙幣として機能してゆくのであった。


 そもそもこの世界の基準貨幣であるデュカート金貨はボーデンブルク王国政府の発行によるものではない。ボーデンブルクには貴金属の鉱山がないため、貨幣発行に踏み切らなかったのだが、それで言うならばデュカート金貨の発行元のアドリアナ共和国は都市国家であるので領内にはいかなる鉱山も持っていない。

 アドリアナ共和国が持っていたのは、通貨発行が莫大な富をもたらすという知識であり、他国から貴金属を輸入して、純度が高くなおかつ耐久性のある高品質な貨幣、デュカート金貨、ターレル銀貨、フロリン銅貨を発行していた。

 やがて質、量ともに他国の金属貨幣を圧倒し、事実上世界基準の通貨になっている。

 デュカートとは元を言えばデュカート金貨のことである。その十万分の一を一デュカート単位とし、価値の評価基準、つまり事実上の通貨となっているのである。

 デュカート金貨は、そういう定義だから十万デュカートに相当する。金貨は高価なものであるが、アドリアナ共和国が鋳造する場合は、原価はすべて込みでせいぜい六万デュカートくらいである。

 残りの四万デュカートはそのまま利益としてアドリアナ共和国の国庫に納められるのだから、基軸通貨を握ることによって、アドリアナ共和国が得ている利益はまさしく天文学的なものになる。


 通貨発行権はこのように、中央政府にとっては欠くことのできない重要な権益であり、この機能を他国に委ねているため、ボーデンブルクの中央政府は弱体なのである。


 ダグウッド銀行券を発行することによって、フェリックスは、事実上、通貨発行権を手に入れることになった。銀行券の素材は、マーカンドルフの魔力が込められ、偽造防止が施された魔紙であるが、紙は紙である。金銀銅に比較すれば、比較するのもバカバカしいほど安価である。

 アドリアナ共和国が得ている天文学的な利益をはるかに上回る利益をフェリックスは得ることになった。それこそ、加盟店の割引分の損失補填など、その利益の前には無視できるほどの微々たる損失にしかならない。


 アドリアナ共和国からの物理的な報復を警戒し、さすがにフェリックスは自身や一族の警護を強化したのだが、そもそもの目的は、アドリアナ共和国から権益をもぎりとることではない。

 金属貨幣が担っていた役割を紙幣に置き換えることであった。


 当たり前の話だが、金属は金属だから、金属貨幣の発行量は、鉱山の産出量に依存している。経済が発展すれば、その発展に応じて貨幣発行量を増大させなければ、経済と貨幣価値が均衡しない。しかし金属貨幣は鉱山の産出量という物理的な上限があるため、経済とリンクして流通量を増やすということが出来ない。

 そのため「貨幣不足」に陥って、経済もそれに引きずられて収縮してゆく。

 いわゆるデフレーションである。

 これが、ほぼ二千年の長きにわたって、この世界の経済が停滞していた理由であり、貧困が蔓延していた根本の原因であった。

 財閥の構築に乗り出したフェリックスが一番懸念していたのが、通貨の流通量の相対的な減少に伴う、デフレの深刻化であり、そのため、とにかく手持ちの金属貨幣を吐き出そうとしていたのである。

 しかしデュカート金貨は根本的にそう簡単に増発されるものではないから、金属貨幣が担っていた役割を紙幣に置き換えなければ根本の対策にはならない。


 そのための、ダグウッド銀行券である。

 ダグウッド銀行券は、デュカート金貨と交換可能であるということが根本価値になっているのだが、実際には交換されることなく流通するだろう。であれば、手持ちのデュカート金貨の何十倍もの額面分を発行しても、価値が担保されている限り支障はない。

 実際に金貨と交換する人はほとんどいないのだから。

 また、ダグウッド財閥企業という産業装置もフェリックスは抱えている。特に、生活に深く関与する小売業を擁していることの意味は大きい。そこでは必ずダグウッド銀行券を引き受けるのだから、銀行券の価値も担保されやすい。


 経済の発展に応じて、フェリックスの意のままに、いくらでもマネーサプライができる、ということである。

 ダグウッド銀行の、事実上の中央銀行化である。


 フェリックスは、ダグウッド銀行内に物価調査部を立ち上げ、調査員を各地に派遣し、物価動向を探らせた。それを元にして通貨発行量を決めるのである。


 誰に知られることもなく、フェリックスはボーデンブルク王国の中央銀行を立ち上げ、その総裁となっていた。

 ここからボーデンブルクの目覚ましいまでの経済成長が始まるのである。

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