第37話 許婚式

 雲一つない晴天でお日取りもよく。

 ヴァーゲンザイルの町の西の端にあるグランニエ離宮は、こじんまりとした邸宅だが、繊細なレリーフや紋様で飾られた瀟洒な風合いがあった。領地貴族の家では、幾つかこうした「離れ」を持っておくのは普通のことで、年寄りの隠居屋敷として使われることもあれば、当主が愛人を住まわせることもある。

 領地貴族家らしい格式のある建物だが、用途としては私的なもの、もしくは非公式なもの、という扱いが、許婚式の会場として用いられるに相応しかった。


 許婚とは、婚約よりはもう少し緩い「結婚の約束」である。言ってみれば、キャンセル料の発生しない予約のようなもので、子が幼いうちに親同士が取り決めて、当人たちの成長を待って、相性がよければ婚約に移行しましょうか、くらいの扱いである。

 口約束で済まされる場合もあれば、今回のように、親族を招いて許婚式が開かれる場合もある。結婚/婚約の申し込みが多くてうんざりとしているような場合は、「許婚者がおりますのでね」と言って断れるようにするだけのために、許婚を結ぶ場合もある。

 許婚を結んで、実際に結婚に至る例はせいぜい五割というところで、一方側の意思で破談にすることもできるし、破談にしたからと言ってペナルティもない。破断された者も評判が落ちるということもない。

 それくらいの緩さではあるのだが、家と家が結び付くのは確かであって、貴族同士であれば同盟の手段として用いられることも多い。


 ヴァーゲンザイル辺境伯爵家では、御年五歳になる令嬢セイラムの許婚式である。「離れ」でのオープンテラスでの立食というやや軽い式になったのは、五歳の幼女に過重な負担を与えないためでもあり、相手が貴族ではない平民であるからでもあった。

 ダグウッド家、ギュラー家を含む一族と相手側の一族のみが出席する内輪の会合であり、それほどのかたぐるしさはない。

 宮中貴族では、そもそも下級貴族は平民よりも生活苦に苦しんでいることから、上層平民との縁組も珍しいことではない。貴族側には、場合によっては支援を受けられる、そうでなくても家名を代わりにして持参金を用意しなくて済む、という利益があり、平民側にはむろん、箔をつけるという利益がある。

 貴族と婚姻関係を結んだ場合、紋章院の許可によってその平民には姓を与えられることが慣例であり、今回の相手、ヒューゲンロック家は、姓がある平民であるから、何代か前に宮中貴族と縁戚関係になっていることが見て取れた。

 領地貴族の場合は、純粋な意味で平民と結婚することは滅多にない。領地貴族の子弟が平民と恋に落ちて結婚するということは、ままあるのだが、当主がその結婚を認めた場合は、名誉騎士爵か勲功騎士爵の爵位をその平民、もしくはその実家に与えることが許されているので、そういう場合は相手側は「平民ではなくなる」のだ。

 今度のことでも、ヴァーゲンザイル辺境伯爵家の郎党としてヒューゲンロック家に勲功騎士爵の爵位を与えることは可能なのだが、それはヒューゲンロック家側が辞退していた。

 ヒューゲンロック家は王都に属する平民であるし、平民としては名の知れた名門であったからだ。


 ヒューゲンロック家はオキシデンタリア大陸諸国でも有数の、ボーデンブルク国内ではもちろん最大のオークション業者である。ヒューゲンロック・オークショニアを経営し、有数の富豪でもある。

 その気になれば叙爵のひとつやふたつ手に入れられるのだが、貴族になればどうしても派閥に組み込まれてしまう。オークショニアは顧客である貴族の財政事情にどうしても通じてしまうことから、中立でなければならず、そのため爵位を敢えて辞退している。

「敢えて爵位を辞退している富豪」

 ということをよく理解していないヴァーゲンザイル一族の末端の貴族などは、ヒューゲンロック氏にそれとなく愛想のない態度で応じていた。主人であるアンドレイがそれとなく間に入って引き剥がしていた。

 それを横目で見ていたフェリックスは、その貴族などはあとあと厳罰が下されるのだろうなあ、と思っていた。そういうことでは決して甘い顔をしないアンドレイである。

 しかしながら一族の者たちからすれば、セイラムは掌中の珠である。伯爵家であった時でさえ平民に嫁がせるなど、考えもしなかったのに、今は辺境伯爵令嬢である。ただの令嬢ではない。古い歴史を誇るヴァーゲンザイル家の、それも宗家の、総領娘でありただひとりきりの姫君なのだ。

 王家に嫁がせても不足はないくらいなのに、平民に縁付かせるなんて何事かという憤りが渦巻いている。

 セイラム様がお気の毒すぎる、アンドレイ様は親として非情すぎるのではないか、と。

 当のセイラムは、許婚相手のイアンと、セイラムの兄のローレックスと交えて楽し気に駆けずり回っていた。イアンはヒューゲンロック氏の嫡孫で、年齢はセイラムよりは二歳上だが、思慮深げで大人しいため、セイラムに主導権を完全に握られていた。

 ヒューゲンロック氏は海千山千で、誰に対しても、どういう態度をとられても愛想よく振る舞っていたので、フェリックスとアビーは、イアンの方に注意を向けて、子供相手に大人げない嫌味を言う者がいないように、気を付けていた。


「フェリックス、カイ卿、こちらへ」


 そうこうするうちに、アンドレイがフェリックスと、フェリックスが今回同伴者として連れてきたカイを手招きした。アンドレイの傍らでは、ヒューゲンロック氏がにこやかに微笑んでいた。


「こちらが今度、当家の縁戚となられるヒューゲンロック殿だ。ヒューゲンロック殿、こちらが私の末の弟のフェリックスと、その家臣で金融を取り仕切っているカイ・テオフィロス卿だ」

「両閣下には、お初におめにかかります、ヒューゲンロックです」

「あなたの分析書は兄を通して読ませていただいています。当家の事業にも非常に役立っていますよ」

「ヒューゲンロック殿、私のことはどうぞカイと呼び捨てでお願いいたします。フェリックス様に鍛えられて、今は過分な地位をいただいておりますが、元はダグウッドの農民の倅ですから」

 カイの謙遜に苦笑したのは、アンドレイだった。


「生まれはともかく、今はダグウッド銀行の頭取ではないか。誰にでも務まる任ではあるまい。過ぎた謙遜はダグウッド銀行の権威を貶める。謙譲は美徳だが、ほどほどにな」

「あ、はい、申し訳ありませんでした。考えが及びませんでした」


 カイが素直に頭を下げれば、アンドレイは満足げに頷いた。

 カイは、フェリックスの「高等学校」の第一期生で、数学に関しては抜きんでた才能を示した。幾何学に特に才能があったので、最初は測量関係の責任者に据えようかと考えたフェリックスだったが、経済学を試しに教えてみれば、目の覚めるような理解力を示したので、フェリックスは自らの右腕として、ダグウッド銀行の運営を委ねたのである。

 教える人の力量の限度があるので、数学に関しては日本の進学校の高卒程度ではあったろうが、そこまでいけばこの世界ではフェリックスに次ぐ碩学ということになる。

 フェリックスはカイを名誉騎士爵に叙して、テオフィロスという姓を与えた。「主に愛された者」という意味である。


 ヒューゲンロック・オークショニアは結果として、宮中貴族、領地貴族の区別なく、各貴族の家の財政にある程度通じることになる。売り物が多ければ手元不如意ということであり、ある貴族が好きそうな物が出展されれば、出席を促すのだが、今回は遠慮しておくというような返事があれば、財政の余裕がないのだと想像がつく。

 逆に身代に似合わぬほど落札を重ねているようならば、領地で圧政を敷いているということである。

 その情報を、アンドレイを通してフェリックスに流していた。

 ダグウッド銀行としては貸付の好機が得られる情報である。


「それでな、我が株の持ち分に応じた権限として、ヒューゲンロック殿をダグウッド銀行の役員に推薦することにした。問題なかろうな」


 アンドレイはフェリックスを見たが、フェリックスはそのまま、カイを見る。


「頭取の判断は?」

「それは、恒久的に、ヒューゲンロック家の持つ情報を提供いただけるということですか?」

「そういうことですな」

 ヒューゲンロック氏が頷く。


「そちらの利はなんでしょうか? 株そのものはお渡ししませんよ? 役員報酬はあなたにとっては微々たるものでしょう」


 カイがにわかに鋭い目でヒューゲンロック氏を見た。


「まず、ダグウッド財閥がオークション事業に乗り出さないこと。その保証をいただきたい。代わりに情報は差し上げるということです。なにしろ私どもは廃業を余儀なくされた街道沿いの宿屋の二の舞にはなりたくないのでしてな。オークション産業など、ダグウッド財閥からすれば吹けば飛ぶようなもの、オークション事業に乗り出されるとすれば、確実に情報目当てでしょう。それは差し上げますので、私どもをオークション事業におけるパートナーとして扱っていただきたい」

「それは今、保証します。他には?」


 フェリックスが口をはさみ、言葉を続けさせた。


「私どもが連帯保証する私どもの顧客に対して貸付をお願いしたい。いいものがあってもたまたま持ち合わせがなくて落札できないということが多いのでしてね。ダグウッド銀行の貸付があれば、私どもも売り上げを伸ばせます」

「それは銀行にとっても利がある話ですが、連帯保証でいいのですか?」

 とカイが尋ねれば、ヒューゲンロック氏はうなづいた。


「誰彼構わず推薦するわけではありません。連帯保証は私どもの誠意の証として受け取っていただければ。その代わりと言ってはなんですが」


 ヒューゲンロック氏はにわかにフェリックスに向かって頭を下げた。


「私が早世すれば、イアンは後ろ盾をなくします。まだまだ生きるつもりではありますが、息子にも、息子の嫁にも先立たれた身です。イアンが一人前になるまで生きていられるかどうかは分かりません。そうなったときはどうか、ダグウッド財閥で後見にたっていただきたいと、せつにお願い申し上げます」


 それを受けて、アンドレイが言葉をつなぐ。


「分かったであろう、ヒューゲンロック殿も生半可な気持ちで、ダグウッド銀行の役員につこうというのではない。むろん、イアン殿の義父として何かあれば私も後見にたつつもりだが、商売のことはどうにもならん。そちらはおまえが支えてやってはくれまいか、フェリックスよ」

「後見のことはお引き受けしますが、役員に迎えるかどうかは頭取の判断次第です」

「お引き受けしましょう、フェリックス様」

「いいのか?」


 ヒューゲンロック氏はすでに財界の大物である。若造であるカイがやりづらいのではないか、それをフェリックスは心配していた。


「ダグウッド銀行頭取として、あなたを経営陣にお迎えできることをお伝えします」

「ありがとう、カイ卿」

「通常は王都に在住なされるのですよね。週に一回、どんな情報でもいいので、報告を送ってください。二ヶ月ごとに経営会議を開きますので、その際は必ずダグウッドにお越しください」


 アンドレイは満足げに頷いた。ヴァーゲンザイル辺境伯爵家の存在感をこれで示せることにもなるからである。

 ヒューゲンロック氏とカイが、離れてから、フェリックスはアンドレイに言った。


「差し出がましいようですが、アンドレイ兄さん」

「ふむ」

「もしこのことをお膳立てするために、セイラムの許婚をお決めになったのであれば、この件は兄さんのご意向通りに進めますからどうかセイラムのことは、あの子のしたいようにさせてやってはくれませんか?」

「大袈裟にうけとるな、フェリックス。しょせんは許婚だ、当人が嫌だと言うなら婚約は強制はしない」

「そうなのですか?」

「あのな、私たち三兄弟はどうも貴族としては例外らしいぞ。他の家では女たちはもっと窮屈だそうだ。うちも、コンラートも、おまえも、まあまあ妻にはしたいようにさせているからな。そういう貴族がそうそういるとは思わんほうがいい。まして、セイラムは、ザラフィアに似て活発と言うか」

「はあ、まあ、元気はいいですよね」

「お転婆というのだ、あれは。困ったものだが、親としては、それがあれの持って生まれた気質ならば、むやみに抑えつけたくはない。ローレックスは大人しすぎるからな、あの兄妹の気質が反対だったら都合がよかったのだが。分かるだろう、フェリックス、常識的に考えて。セイラムはどう考えても貴族の奥方向きではない」

「では、許婚のことはセイラムの幸福を考えて?」

「当たり前だろう。イアン殿とは王都に行った時に会ったのだが、人間、持って生まれた性格は年をとってもそうは変わらない。あれはなかなか包容力のある男の子だ。セイラムの手綱をうまく握ってくれるだろう。ヒューゲンロック家は財産もあるし、貴族に比べれば面倒も少なかろう。財閥の役に立つことはあくまでついでだ。セイラム個人にとっては百点満点の相手だな」

「そうだったのですね。僕は兄さんのことだからてっきり」

「おまえが私をどういう目で見ているか分かったぞ。まったくひどい弟だ。おまえな、セイラムのことを案じてくれるのはありがたいが、当のおまえの息子についてはどうなんだ。乳飲み子だからと乳母に任せきりにしているのではあるまいな。母上がお怒りであったぞ。

 領主など、しょせん、おまえがいなくなっても誰かが後をうめる。だが、マックスの父親はおまえしかいないんだからな」


 アンドレイに叱られて、思い当たるふしもあったので、フェリックスも反省した。それから毎日一時間は、マックスと遊ぶ時間を捻出するフェリックスであった。

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