第35話 とある男爵家の日々
男爵、という爵位は、准男爵と同格、名前から言えば准男爵よりは上だから、地方に行けば下にも置かない扱いを受ける。
地方に査察等に行く機会の多い部署、星室庁などが男爵の勤め先として人気があるゆえんだ。地方に行けば彼らは領地貴族から接待を受け、数年分の年収を上回る土産を貰ったりする。
それを賄賂と咎めることなかれ。彼らの俸給など、百五十万デュカートもあればせいぜいである。男爵とても、人並みの暮らしを求めることを誰が責めることが出来るだろうか。
そう言う余禄もない男爵家では、せっせと勤務外労働に勤しむわけである。
家々には、家芸なるものが伝わっていて、製造業系の家芸がある家は、多少はましである。モノが売れるからだ。
ライドック男爵家は、アヴェラード王家のはるかな末裔であるが、当代の当主、ライドック男爵はその系譜すべてをそらんじている。系図こそは彼らの存在意義であり、たとえどれだけ王家から距離があっても、王家から分かれた家であるというただ一点だけが彼の誇りである。
ライドック家はライドック流
ベネヴェント侯爵家が家元のベネヴェント流書道は、元をたどればライドック流の弟子筋なのだが、習う方からすれば侯爵とのコネがつながるので、どうせ習うならベネヴェント流を、ということになる。
「ご当代様のはですね、正直、市場価値がないのですよ。お付き合いにしても、限度というものがありますからね」
「そこを何とか。将来、値が上がらないとも言い切れんだろう? これと、これ、こちらもつけるから」
「うーん、まあ、一応受け取っておきましょう。しょうがないですね。じゃあ、これこれの値で。そうそうあてにされても困るんですが、こちら様とは代々の付き合いですからね」
「かたじけない、恩に着る」
ライドック男爵が床に頭をこすりつけるようにして、平身低頭しながら、書画骨董屋からやっともぎりとったのが二十万デュカートであった。
代わりに、会心の作数点を手放したが、市場価値がないのは本当であるので引き取ってくれただけ有難い話である。
なけなしの二十万デュカートである。本当ならば、生活費に組み込みたい。だが、これは質屋への支払いに充てなければならない。そうしなければ、預けてある礼服を取り出せないのだ。
大喪の礼が迫る中、どうしても礼服は必要である。
薄めに薄めたスープでなんとか腹を満たし、空元気で奮い立たせるしかない。
王都の貴族ほど王都風なるものを憎んでいる者たちはいないだろう。薄味の料理も要は調味料を惜しんだ結果である。それを、みやび、と言い換え、地方貴族たちはまんまと騙されて、さすがに王都風は「わびさび」が利いていますなあ、と有難がるのだが、その内実は生活苦との闘いの結果であるのを王都貴族たちはよく知っている。
王都、中央政府と言っても、その上りは公爵領二三個分にしかならない。それで政府を維持しつつ、すべての王族、宮中貴族の身代を賄うのだ。
貴族らしい生活ができるのはせいぜい侯爵まで。
子爵、男爵たちは緊縮財政の直撃をくらわざるを得ない。
彼らは領主貴族たちとの縁組を求める。縁戚関係になれば、持参金を貰えたり、援助金を貰えたりするからだ。さすがに縁組となると、領主貴族たちも自分たちの思惑があるので、王都の貧乏貴族の血筋を有難がるだけではないのだが、家柄は良くてしがらみが少ないことが利点になる場合もある。
そういう場合は、領主貴族たちも王都の宮中貴族と縁組を行うこともある。
ライドック家の場合は、貧乏なくせに妙に清廉潔白なところがあって、芸術家肌の当主が続いたために縁戚関係が貧弱で、他家からの支援は受けられない。
当代の男爵夫人も別の男爵家の六女であって、
いっそのこと貴族でさえなければ、普通に働くことも出来るのだが、なまじ貴族の体面と縛りがあるせいで、働くこともままならない。
ライドック家の長男は、偽名で某私塾で教師をして糊口を凌いでいるのだが、偽名でこそこそ隠れて働かないといけないため足元を見られて、給金は十二万デュカートしかない。それでもその収入があるからなんとかやっていけるのである。
書画骨董屋が帰った後、男爵ははらりと落涙した。
どれほどの罪を犯してこのような身に生まれついてしまったのだろうか。せめて来世は、三日に一度は腹いっぱいに気兼ねなく食べられる身に生まれたいものだ。
穴を塞いだ礼服を庶民に嗤われるかと思えば、大喪の礼も気鬱な男爵だったが、賄いの食事は出るだろう。犬にやる、と称して、食べ残しを箱に入れて持ち帰れば、妻子も久しぶりの御馳走を食べられる。それだけが救いであった。
翌々日、例の書画骨董屋が慌てて男爵家に駆け込んできたので、男爵は思わず、
「あのカネならもう使ってしまってない。今更返せと言われても困る」
と言った。
「いえ、そうではなくてですね。大量発注があってですね、ご当代様のでよろしい、ある分だけ買わせてもらいましょう」
と骨董屋が言ったので、男爵はキツネにつままれた思いだった。
なんでも、ダグウッド辺境伯爵家が、王都に屋敷を購入したので、飾りつけに書画骨董類が大量に必要なのだという。
「ダグウッドの。なんでもたいそうな羽振りとは聞いているが」
ダグウッドの繁栄については、詳細な情報はライドック男爵にまでは回ってこない。それでも飛ぶ鳥を落とす勢いだというのは知っていた。
「ご当代様。ここが稼ぎ時ですよ。なんなら今からちゃっちゃと新しく作ってください。ええ、材料もお持ちしました」
この骨董屋はわりあい良心的で、卸値の半額でライドック家の書を引き取った。卸値をそうとう吹っ掛けても、ダグウッド家は言い値で買う様子であったから、ここはライドック家にも儲けてもらわないと思いついて、早速掛けつけてきたのである。代々の付き合いもあったし、何よりも、市場価格のことはともかく、書家としての当代ライドック男爵の力量を買っていたからでもある。
「こんなに…」
積み上げられた金貨、六千万デュカートを見て、ライドック男爵は呆然とした。
「先に
かくして、ライドック男爵家では王都風ではない、味の濃いご飯を食べられるようになったのである。
こういう、ダグウッド家の余慶を被った弱小貴族家が幾つもあった。
彼らが強力なダグウッド支持勢力になったことは言うまでもない。
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