第34話 国王崩御

 朝、大食堂でスウプをひとさじすっと吸っていたマダム・ローレイが、「あ、」と幽かな声を上げた。

「いかがされましたか、母上」

 フェリックスがそう声をかけると、

「いえ、なんでも」

 と、マダム・ローレイは、グリインピイスのスウプに再び取り掛かる。


 大方、髪の毛でも入っていたのだろうとフェリックスは察した。食べ物に髪の毛が入っていれば、むろん不快ではあるが、ままあることではある。


「ちょっとおぉ、気を付けてよねーぷんぷん!」


 と料理人や給仕人に気軽に言えるほど、ダグウッド家は小さな家ではなくなってしまっていた。信賞必罰は組織の倣い、公にしてしまえば、料理人たちは、くびにまではならないまでも、少なくとも減点の査定は免れないだろう。


 結果、多少の粗相くらいでは、フェリックスたちが雇い人たちに直々に注意することもままならない。


 ダグウッド城の大食堂は、晩餐会や舞踏会も開けるくらいの大きさで、天井も高い。

 領主家で食堂を普段使いするのは、フェリックスとアビー、マダム・ローレイしかいないのだから、もっと狭い小食堂で食事をしたいとフェリックスが言った時、マーカンドルフがついに執事職を退いた結果、新たに執事長として迎えられたクインタスは、領主家の権威づけのために、普段から「無駄な荘厳さ」に慣れておかれるべきです、と主張したので、大食堂で食事をしている。

 ちなみに、クインタスは、自らの才覚で、執事職を極めた人で、数家の大貴族家を渡り歩いた人であり、アンドレイの紹介で、フェリックスが迎え入れた。


 当主の席にフェリックスが着くのは当然としても、アビーもマダム・ローレイもそこから席が遠く離れている。

 それでいて、大声を張り上げなくても声が通るのは、この大食堂がコンサートホール並の音響効果を持っているからだった。


「失礼します」


 通用扉が開いて、今はフェリックス専属の秘書官になっているリュッケが、フェリックスに近づこうとしたところ、フェリックスの後方に控えていたアグネスが前に出て、リュッケの接近を阻止した。


「いいよ、リュッケは秘書官だから。身体検査もなし」


 フェリックスの言葉に、アグネスは一瞬不満げな表情を浮かべたが、すぐに後ろに戻って、ただ、リュッケが何かおかしな振舞いをすればただちに前に出られるように、注意だけは怠らなかった。


 リュッケは中腰になって、用件をフェリックスに囁く。

 ふむふむ、と聞いていたフェリックスは、突如、目をむいて、やがて大きなため息をついた。


「ああそう、ヴァーゲンザイルも、ギュラーもね。まあそうなるよね」


 両家の名が出されたことから、何事かとアビーとマダム・ローレイも食事の手を休めて、フェリックスを見た。


「私も伺ってもよろしいことかしら?」


 リュッケが退出した後、マダム・ローレイはそう言った。


「ええ、母上。アビーも聞いて。

 国王陛下が崩御されたそうです」

「そう」


 二人には驚きはない。長患いで、ある意味、今か今かと待たれていた死である。


「新王ウェンブリー陛下が即位されました。副王にはアヴェラード家より、エンギラス陛下が即位なさったとのことです」

「予定通りよね」


 アビーがクールに言う。

 すべてはあらかじめ整えられていた段取り通り。実質的には、一諸侯の力しかない王家であるが、であればこそ、この時期は稼ぎ時である。


「それで…新王即位の褒賞と恩赦が発表されたそうで、ダグウッド家は伯爵位をとばして辺境伯爵位に陞爵されました」

「えっ?」


 マダム・ローレイが目を丸くする。そんな前例は聞いたこともなかったからだ。


「新王からの要請として即位の大礼の費用負担を依頼されました。当家の規模から言って、辺境伯爵位に押し込めると同時に、むしりとってやろうと言うのでしょう。ギュラー家とヴァーゲンザイル家も陞爵するそうです。させられる、と言った方がいいかな。アンドレイ兄さんも慣れ親しんだ伯爵会会長をいよいよ辞任しないといけないみたいですね」

「即位の大礼にかこつけて、いろいろぶっこんでくるよねー?」


 アビーの言葉に、フェリックスはうなずいた。

 即位の大礼は、即位式の豪華版でここ十数代は費用がまかなえず、見送られてきた。それを今回はやりたいというのである。

 即位の大礼自体は、それなりの費用とは言え、今のダグウッド家ならばお付き合い金として出せる額だろうが、ここも修繕しないといけない、やれ誰誰に祝い金を払わないといけないなどと名目をつけて、むしりとる気満々なのが見て取れる。

 辺境伯爵への陞爵、二階級特進という前代未聞の厚遇は、それ相応の「返礼」を期待してのものである。


「母上?」


 ぼーっとしているマダム・ローレイを訝しがって、フェリックスは声をかけた。


「あ、ええ。ちょっと感慨深くて。私が産んだ子、三人が三人とも辺境伯爵になるなんてね」


 コンラートは喜ぶかも知れない。ザラフィアは無関心だろう。でも、アンドレイとキシリアは、しようとする王家の罠を見出して、この陞爵を素直には喜ばないだろう。

 フェリックスとアビーはむろん、大きな負担を課せられるこの陞爵を有難迷惑だと思っている。


 けれども母親の想いは、息子たちの出世はやはり素直に嬉しいものがあるらしい。


「で、どうするの? フェリックス?」

 アビーが聞く。


「どうもこうも。ただでさえ警戒されているダグウッド家なんだから、ここは恭順の意を示しておくよりないよ。そうしたら他の貴族も、ダグウッドも王家には逆らえないか、と安心するだろう?」

「それなら、ダグウッド家の人間が、即位の大礼に出ないとねー。いつもみたいに、キシリア姉さんやアンドレイ義兄さんにお任せってわけにはいかないよね?」

「アビー、行ってくれる?」

「…ここはやっぱり、辺境伯爵が直々に行くべきなんじゃないの?」

「うーん、銀行の方が大詰めなんだよなあ。行ったらなんだかんだで半年以上、拘束されてしまうかも。それは避けたい」


 貴族の家は夫婦二人三脚である。名代として夫人が出張ってくることは珍しくない。そもそも世襲制であるため、性格や能力的にどうもこころもとないという人が当主になることがあり、そういう場合は夫人に賢い女性をたてて、夫人が政治を総覧することも珍しくはない。

 女は男を立てて一歩下がって、というような道徳観はボーデンブルク貴族にはない。貴族の家の運営、特に領地経営は、一家総出の全員野球なのである。


「そうそう、銀行と言えば。アビー、今月まだ支出のノルマ全然こなしてないでしょ。ちゃんとやってくれよ?」

「え? 何いきなり?」

「僕たちがカネを使わないと市中にカネが回らなくなって大変なことになるって言ったよね? ノルマはちゃんとこなしなよ」

「そんなこと言ったって、私も働いているんだよ? 働いていたらおカネを使う暇なんてないじゃん!」


「だいたいフェリックスが無茶なのよ。月に一億も使えなんて、私だって無理よ」

 とマダム・ローレイは助け船を出す。

「母上だってもっと使ってもいいんですよ?」

「もう新しいドレスも家具もたくさん! 私だってひいひい言いながら使っているのよ?」


 ただ漠然と使えばいいというものでもない。出来るだけ多くの人から、適正な価格で、様々なものを購入しろ、というのである。フェリックスの要求は厳しい。


「今は、なんとか過剰消費で乗り切っているけどさ、だから即位の大礼での散財も案外、望むところなんだけど、そんな無茶は長く続かないよ。そのために銀行の方で策をたてているんだ。早く実施しないと、経済が無茶苦茶になってからじゃどうしようもないからね」

「私にはよく分からないけど、フェリックスは確かに銀行にのめりこんでいるもんね。最近、マルイモのこととか全然気にしてないよね? ああ、いいんだよ、別にマルイモは順調だから。開拓も進んでいるから、そこは問題ないし。テンサイの製糖工場も稼働したけど、いいの、竣工式には私が行ったから。ええ、分かってほしいのは、私も働き通しでとてもおカネを使っている暇なんてないってこと!」

「ま、とにかくそういうわけで、僕は離れられないからさ、そういうことで」

「どういうことよ!!!!」


 アビーが気がかりなのは、母親としてマックスとの時間をまったくとれていないということだった。貴族はだいたいがそういうものであって、マックスの場合は姑のマダム・ローレイが面倒を見てくれているとはいえ、親としてこれでいいのかという思いもある。

 フェリックスは輪をかけて、マックスを放置気味である。たぶん一日で五分も顔を会わさないんじゃないだろうか。


 ああ、でも。


 結局、フェリックスを許してしまうアビーだった。どうしてだろう。子供の時から結局はフェリックスのやりたいようにやらせてしまう。

 こんな自分勝手な男のどこを好きになってしまったんだろう、とアビーは自問自答する。


 顔だわ。


 とアビーは思った。外見なんかじゃなくて、内面を重視する高尚な人間だとアビーも自分のことはそう思いたい。でも、結局、究極的に言えば、顔だった。二枚目で言えば、アンドレイやコンラートの方が整っているとはいえる。フェリックスも整ってはいるが、すこしぼんやりとして崩れているようにも見える。

 その崩れ具合が好きなアビーだった。黒ずんだバナナのような顔である。


 なんだかんだとアビーは丸め込まれることになった。


 その日の夜、急遽割り込んだ王都行きの準備のために、日付が変わって寝室に戻ったアビーは、フェリックスが先に寝ているのを確認した。

 二人は同じ寝室で寝ていると言えばそうなのだが、寝室は間仕切りで仕切られて、特別なことがない限りは別々の場所で寝ている。結婚当初は一方が仕事を終えるまでは、もう一方も待っていたのだが、それぞれに仕事の終わりが不規則過ぎて、それをしていたら互いに身が持たないので、先に休める方は先に床に就くようになった。

 やむを得ないとは言え、夫婦の語らいは減ってゆく。


「あ、さすがにこれくらいはしておかなくちゃ」


 ベッドに入る前に、アビーは膝まづいて、前王の冥福を祈った。


 

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