第19話 東岸へ

 ホテルではお客様扱いしても、フェリックスは別にアグネスたちを客人として招いたわけではないので、到着して翌日には、大湿地へと連れて行った。

 まだ着工し始めたばかりだが、大湿地では杭を打って、その上に板道を通し、橋や足場を作ることが始められている。宿屋の試験運転が始まったばかりなので人足の手配も出来ていないから、従事しているのは出戻って来た者たち数名だが、中にはこうした土木工事で働いていた経験を積んでいる者もいて、彼らを工事監督に任命している。

 大湿地は、水の通り道さえ遮らなければいいわけで、その上をある程度は板で覆っても機能自体は保全される。洪水の時も、フェリックスは毎年計測しているから知っているのだが水位自体は同じで、水位を超える高ささえ確保してやれば板道が流される心配もない。

 要はマルイモの農地を作るなら、肥料のある場所に作るのが一番効率的なわけで、これだけの大空間が手つかずで空いているわけだから、一気に数十倍の規模で増産することも可能になる。

 大湿地の上に人工農場を作ろう ― 農場はすべて人工のものだからこういう言い方はおかしいのだが、工場マニュファクチュアとしての農場を作ろうというのがフェリックスの発想であり、計画である。


 そして、板橋が対岸まで達すれば、その向こうの未開の土地とつながる。つながるのだが、そもそもつなげて問題がないかどうかを探索するのが、アグネスたちの仕事になる。

 下手をすればドラゴンの一頭でも住処にしているのかも知れないのだから。

 魔物と言うのは、要は野生動物なのだが、中には地球ではあり得ないような形で進化している種もある。粘菌が個体意思を持ったスライムもそうだが、ドラゴンもそうである。

 ドラゴンなるものを図鑑で見て、ティラノサウルス? とフェリックスは思ったのだが、時代が合わない。この世界がフェリックスが推測しているように地球のパラレル世界だとすれば、少なくとも人類が出現してから分岐しているわけで、その時代には恐竜はいなかったはずなのだが、何があるか分からない世界だ。


 工事自体はさして複雑なものではない。杭を打ち込み、その上に板を張るだけだから。水の引ける冬季が工事しやすいかと言えばそうでもなくて、ぬかるんでいるわけだから、杭がまっすぐ岩盤にまで達しないことも多いようだ。と言って、土の色を見なければ、適切な場所も選びにくいのだから、春になればなったで別の問題が生じるのかも知れない。とにかくは足場が作れればいいわけで、杭が曲がっていても、当面板が渡せればいいのである。板を広く張ればそれ自体が杭を固定してくれるのだから。

 命にかかわるような工事ではない。不都合が生じれば都度都度補修していけばいいのだ。

 ようやく25メートルプール一個分くらいの面積が確保できているに過ぎない進捗だが、すでにマルイモのプランターが効率よく設置されていて、マルイモ生産の2%を担うまでになっている。

 湿地でのマルイモ栽培については、ガマに作らせた会社が労働者を雇用し、運用する仕組みになっていて、新規に入れた小作からも何人か転用している。


 工事の労働者の一人がぬかるみを移動するのに便利な、たらいのような乗り物を作っていて、フェリックスはそれを高値で買い上げた。

 ここ数日は、湿地の移動に往復四時間をかけて、アグネスたちに対岸に渡ってもらい、自分たちでベースキャンプを整えてもらう手はずになっている。

 測量の要員を送りたいのだが、「高校課程」に在籍しているカイという青年が理数に強く、三角測量の原理を教えたのだが、現時点では危なくてカイを送り込む気にはなれないフェリックスである。

 「高校課程」に在籍している数人は、本当に手塩にかけた人材で、いずれはダグウッド家の首脳陣に加わる者たちだ。こんなところで失うわけにはいかない。

 ダグウッド家にもひとつしかない高価な方位磁石を貸し与えて、ざっとした地図を描くやり方は、「不動なる者たち」の中でこういうことに一番適性がありそうなオルディナに教えておいた。

 東岸の状況を確認すること。

 大雑把なものでいいので地図を作成すること。

 山脈が岸に迫っているのは分かっているので、山の切れ目、もしくは河川を発見すること。

 可能であれば内陸へ続く経路を発見し、入植できそうな盆地を探すこと。

 それが「不動なる者たち」の当面の任務であった。

 物資についてはガマに任せ、物資補給も自分たちで行わせる、報告は最低でも月一回、長期の探索に赴く場合は事前に報告することを求めた。


「出来るか?」

「あたしたちは不動なる者たちだよ。別になんでも出来るというほどにはうぬぼれちゃいないけどね、あたしたちに出来ないなら他の誰にも出来ないさ」


 よし、とこの件は、アグネスたちにフェリックスは任せたのであった。


 うーん、うーん、と脳の奥から知識を絞り出すことが最近増えているフェリックスである。

 当たり前のことだが、フェリックスは地球の知識すべてに通じているわけではない。中の人はわりあい博識な人ではあったが、例えば農家ではなかったので、農法のことなどは、項目程度のことしか知らない。

 蒸留酒については、村でビールを作っているトビアスじいさん、酒造家というよりは「どぶろく作り」みたいなものだが、彼に「こんな感じで」というのは伝えて研究させている。成功すればウィスキーができるはずだが、フェリックスに言えるのは「なんかこう、蒸発させて濃縮させるんだよ」程度の漠然としたことだけだ。

 他に蒸留酒があればいいのだが、何しろこの世界では初めての試みだ。

 この世界の農業は原始的な二圃式農業で、麦については小麦と、ライ麦、大麦を休耕期間を挟んで交互に植え、小麦が他の麦の倍はとれるようにしてあるが、小麦よりははるかに価値が劣るが大麦もそこそことれるわけである。

 小麦を主に対外的な税として、大麦、ライ麦を村内での食糧にすることが多いが、とにかく大麦が取れるからには、ビールは村内で自給自足できているわけである。

 マルイモから焼酎が作れるんじゃないかと思うフェリックスだが、今のところはやり方が見当もつかない。すでに醸造酒として存在するビールから蒸留する方がやり易そうに思えて、まずはそこを成功させなければならない。

 味や風味についてはとりあえず二の次である。アルコール度数が高ければ、酒呑みには衝撃的に売れるだろうし、医療への転用も出来るだろう。

 アルコール殺菌が広まれば、少なくとも出産時の母子死亡率は劇的に改善することはこれはもう確実であって、しかしそうなれば人口は増えるわけで、増えた人口を養えるほどには経済や生産性を拡大させておかなければならない。

 何もかもを同時並行で進めていかなければならないフェリックスである。

 アルコール殺菌の普及については、生態系の根幹をいじることになりかねないので、ただちにどうこうするつもりはないフェリックスだったが、自領についてはいずれ普及させるつもりである。


 フェリックスがもうひとつ取り組んでいるのは、普通の農法でマルイモの作付けが出来ないかの実験である。これは最初の頃からフェリックスに協力的だった農家のデイスンとその一家にやってもらっている。

 豆科植物が窒素を吸収しやすいというフェリックスの知識が活かされて、三圃式農業はとりあえず成功した。農法については現時点で不満はないので、領主としてどうこうするつもりはない。農民が主体になって三圃式農業に移行してゆくならばそれでいい。

 マルイモの再生産は三圃式でも駄目だったが、小さなイモをつけるまでにはなっている。あともう一押し、何かあればいいのだがと思って記憶を探れば、そういえばテンサイを四圃式で組み込むことが多かったはず、というのを思い出した。

 テンサイを組み込めばマルイモの再生産が可能になるのかどうかは分からないが、そもそも現時点ではテンサイがない。

 テンサイがあれば砂糖を作れるのだが、砂糖を作れるならうちの特産にしたいなあとフェリックスは思いつつも、そもそもマルイモの通常地での再生産を考えているのは「よその領地でマルイモを栽培させる」ことを見越してやっているのだから、テンサイがマルイモ再生産に使えるとして、今度はテンサイを独占すれば本末転倒である。

 フェリックスが領主として、まずはダグウッドの人々に責任を持つのは当然だ。そしてまずは出来るところから手を付けるのも当然だ。しかし、フェリックスは他領の人々のことをどうでもいいと考えているわけではない。いずれおいおい手を伸ばすつもりだった。

 マルイモが現状、ダグウッド家にとって、かけがえのない戦略物資であるのは事実であるが、フェリックスは未来永劫、マルイモをダグウッド家だけで抱え込むつもりは微塵もないのだ。

 そのために、他の村でも栽培できるようにしておく。何しろ生産性は段違いに高い食物なのだから、日の下のどこででも、飢餓と戦う有力な武器になり得るのだから。

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