第17話 ダグウッドへの帰還

 「卿」という日本語がややこしいのは、それが Sir と Lord という別の英単語の共通の訳語として使用されているからで、しかももとの英単語に複数の用法があるからだ。


Sir はナイト爵の称号/敬称として用いられるのだけど、これは個人名ファーストネームにつく。英国の名優ローレンス・オリヴィエを例にとれば、彼はナイト爵だったので、Sir Lawrence, すなわちローレンス卿であり、彼をローレンス・オリヴィエ卿とフルネームで呼ぶことは可能でも、オリヴィエ卿と姓で呼ぶのは間違いである。

 ややこしいのは、Sir の夫人については Lady +姓、の組み合わせで呼ぶことであって、ローレンス卿の夫人だった女優のヴィヴィアン・リーは結婚期間中と離婚してから再婚するまでは Lady Olivier と呼ばれていた。

 ちなみに英国の弁護士は事務弁護士ソリシタ法廷弁護士バリスタに分かれていて、社会的な身分は全然違う。ジェーン・オースチンの「高慢と偏見」で、主人公エリザベスの叔父が「弁護士」なので身分が低いように扱われているが、こちらは事務弁護士の方であって、最近の事情は分からないが法廷弁護士の場合は、ナイト爵が授けられるのが一般的だった。

 例えばアガサ・クリスティの戯曲「検察側の証人」で、法廷弁護士が「ウィルフレッド卿」であるのは、彼が法廷弁護士としてナイト爵位を授与されているからである。


Lord は一般名詞として「主人/旦那/主(神に対して)」という意味があるけど、貴族に対する称号/敬称としては、やはり「卿」の訳語があてられている。

 英国の爵位はそもそも、爵位、として最初から設定されていたものではなくて、方面軍司令官が公爵に、行政官が男爵に、というように意味が横滑りしたものである。だから「ノーフォーク方面軍司令官」が公爵に横滑りした場合は、Duke of Norfolk というように、「~の」という地名と of が添えられるのが普通であって、そういう形式の貴族はより古い家系であると一般に言える。

 後に爵位がそのまま爵位としてとらえられるようになれば、スペンサー伯爵、Earl

Spencer のように姓がそのまま用いられるような例もある。

 Lord の場合はまず、侯爵以下の貴族については、爵位そのものの「代名詞」として機能する。

 ダービー伯爵を Earl of Derby と呼ぶことも可能だし、Lord Derby と呼ぶことも可能である。注意すべきは、of があったとしても、Lord を用いる場合は of が欠落することで、また、公爵については、Lord は用いられないという点だ。

 公爵、侯爵、伯爵の嫡出の男子については、Lord の敬称が用いられる、という用法もある。これは個人名につく。

 英国のチャーチル首相の父、ランドルフ卿は十九世紀末に大蔵大臣を務めたが、彼はモールバラ公爵の次男であったので、ランドルフ卿なのであって、この「卿」は Sir ではなく Lord である。


 異世界では、Sir も Lord もどちらも、ヒェールなのだが、一個の個人が様々な意味で、ヒェールであることがある。


 フェリックスの兄のアンドレイの場合は以下のようになる。


 ヴァーゲンザイル伯爵の嫡出子の男子としてアンドレイ卿である。

 ヴァーゲンザイル領の個々の村落の領主、勲功騎士爵としてアンドレイ卿である。

 ヴァーゲンザイル伯爵としてヴァーゲンザイル卿である。


 ヴァーゲンザイル領全体の領主として、彼はヴァーゲンザイル伯爵ともヴァーゲンザイル卿とも呼ばれ得るのだが、彼に対してはヴァーゲンザイル伯爵、と呼ぶ方が丁寧である。卿、と略した場合、それは男爵、子爵と言った格下の貴族に対しても行われることなので、きちんと区別していますよという誠意を見せるためには「ヴァーゲンザイル伯爵」と呼ぶ方が礼儀にかなっている。

 ベイベル辺境伯爵はあえて「ヴァーゲンザイル卿」と呼ぶことで、ヴァーゲンザイル伯爵が格下である、若造であることを暗黙裡のうちに強調したわけだ。


 それはともかく。

 フェリックス卿の話である。


 あれ以来すっかり意気消沈してしまったフェリックスは、ルークらと言葉を交わすこともなく、ヴァーゲンザイルの町にたどり着いた。

 ともあれ、帰還の報告と、ブランデンブルク公爵領で盗賊に襲われた経緯の報告、更に言えばルークを貰い受けることについて、アンドレイに報告し、話を詰める必要があったのだが、今はそれすらもやりたくなくて、報告についてはルークに任せて、ルークを貰い受ける話については近日中に、いったんダグウッドに戻ってからマーカンドルフと相談の上出向くことにした。

 それについてはルークと話をまとめて、ルークを置いてそのまま館に立ち寄ることもなく、ヴァーゲンザイルの町を後にした。

 ふらふらしているフェリックスを見て、ここでいったん別れることについてはルークも不安を覚えたのだが、ノエルを斬った当人であるルークが側にいては落ち着くものも落ち着かないだろうと思いなおし、ここは敢えて素直に身を引いたのである。

 長いとは言えないまでも短くはない旅程の中で、アグネスたちもある程度はフェリックスの人となりを把握していた。

 差別されがちなアグネスたちの盾になってくれた姿も実際に目の当たりに見ている。ノエルの件についてはアグネスたちは貴族でもなければ領主でもないので、フェリックスの心情は理解できない。

 敢えて言うならば、盗賊を斬るのは当たり前であって、そんなことで悩むこと自体がおかしいと思っていて、ルークも、子供のお守をさせられて大変だなという程度の感想である。

 だが、そういう人だから、アグネスたちに分け隔てなく接してくれているのだということは何となく理解している。

 今のところは、忠誠心というほどまでには育ってはいないが、「今度の依頼主は気のよい人で良かった」くらいには思っている。

 個人的な好悪で言えば、好き、であるし、別にカネ勘定がかかわっていなくても、フェリックスが襲われていたならば助けてやってもいい、くらいには好意を抱いている。まして依頼主なのだから、残りの半金のためにも、アグネスたちが護衛をしっかりやるのは自分たちの利益のためにも当然であった。


「ここからは今から立てば日が沈む頃には着く距離だ。安全な道のりだが、ダグウッド村も成長しているし、今まで寄り付かなかったような者たちも来ているかも知れない。護衛の任務、気を抜くなよ。これも仕事に含まれているんだからな」


 アグネスたちの戦闘力を実地に見ていて、護衛としてはかなり優秀な彼女たちにフェリックスを委ねることに、格別の不安があるルークではなかったが、すでに今までの人生の中でも誰にも預けたことのない忠誠をフェリックスに預けた以上、即刻に同道出来ない身が残念でならない。それがつい、老婆心となって口やかましい言葉となった。


「ああ、任せな。引き受けたからには命に代えてでも守り抜くよ。モンテネグロ人は約束はたがえないんだ」


 本当ならどうあっても、貴族の常識から言えばヴァーゲンザイル伯爵に挨拶をしておくべきだが、今のフェリックスには無理は言えない。

 ヴァーゲンザイル兄弟は馴れ合いは互いに排してはいるが、別に憎みあっているわけではなく、アンドレイはアンドレイなりにフェリックスのことを気遣っているのはルークにも分かっている。舌打ちくらいはするかも知れないが、最後の最後のところでは、アンドレイは家長としては家族に甘い。

 フェリックスがダグウッド村を相続したのでなければ、アンドレイにしてもコンラートにしても、フェリックスが貴族の三男坊としてそれなりに苦労なく生きられるように手配したはずだった。


 ヴァーゲンザイルの町を後にして、アグネスたちはそれなりに気を張って、フェリックスとその農耕馬を囲んで、護衛をしていたのだが、特になんということもなく、夕方にはダグウッド村のはずれにたどりついた。


「あ! フェリックス様だ!」


 何人かの子供たちがフェリックスにきづき、すかさずまとわりつく。子供が遊んでいるのは当たり前と言えば当たり前なのだが、子供ですら貴重な労働力だったこの村では、そうした光景が当たり前になったのもここ数年のことだ。

 ここ数年というのは、フェリックスが領主になって以来であって、どんなに物事が見えない者であっても、フェリックス以前と以後では、何もかもが良い方向に激変していることは分かっている。

 深い敬意と感謝の思いを村の誰もが抱いていることに、フェリックス当人のみが鈍感であった。

 フェリックスは馬から降りて、せがまれるままに、子供を撫でてやったり、馬に乗せてやったりしながら、笑いあっていると、少し心の滓が溶かされていくような気持になった。

 ノエルもこの子たちみたいだったのにな、という思いがあふれて、すぐさま悲しい気持ちがぶり返し、この子たちの中から、もう二度と絶対に、誰一人ノエルみたいな死に方をしなければならない者を出してはいけないと思うのだった。


「ねーねー、お姉ちゃんたちはなんで黒いの? お日様に焼かれちゃったの?」


 アグネスたちも子供に翻弄されているのを横目に見ながら、フェリックスは領主館のところまで、たどりついた。


「あ、ご主人様、お帰りなさいませ」


 女中が水くみのバケツを持ちながらフェリックスに気づく。


「奥方様は、視察に出られていて…」


 と女中が言いかけたとき、


「フェリックス!」


 と下り坂の向こうから、息せき切って、アビーが駆けてくるのが見えた。ああ、あんなに下も見ずに走ったら、転んでしまうじゃないかとフェリックスが思っていたら、アビーはいったん、女中の前のところで立ち止まって、肩で息をしながらそのバケツの中の水をすくって飲んだ。

 そしてもう一度、


「フェリックス!」


 と言うなり、倒れるようにフェリックスに抱き着いてきた。

 フェリックスのうしろにいたマルテイがすかさず、フェリックスの背中を支えなければ、年齢の割には貧弱な青年であるフェリックスは倒れこんでいただろう。


「おかえりなさい! あのね、あのね、会いたかった!」


 そのまま、フェリックスはアビーをぎゅっと抱きしめた。


「ただいま、アビー」

「ね、フェリックスも私に会いたかった? 私はいっぱいいっぱいフェリックスに会いたかったよ!」

「うん。僕もいっぱいいっぱい会いたかったよ」

「んん? なんでフェリックスは泣いてるの? ここは笑うところだよ、おかしなフェリックス」

「そうだね、僕はおかしいんだよ」

「いいって! フェリックスは泣き虫なんだから」

「泣き虫なんだよ、僕は」

「知ってる!」


 アビーの方は泣きもせずに、沈んでゆく太陽がまた昇ったかのように笑った。

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