第13話 ベイベルまでの行程
ベイベルはベイベル辺境伯爵領の首府で、人口は二万五千人というところだが、冒険者ら流動人口が少なくともその二倍は常在している。ヴァーゲンザイルからは馬の脚で急いで十日というところだが、フェリックスが使用している馬は、純粋な軍馬ではなく、毛並みが長い農耕馬を騎乗用に転用した馬なので、長くは駆けられない。
山がちなダグウッドの地形を上り下りするにはかえって適任なので、フェリックスは農耕馬を使用しているのだが、割高な軍馬には、まだ、手を出すのを躊躇ったというのも本当のことだった。
ダグウッドでは当主であるフェリックスでさえ購入を躊躇う高価な軍馬を、ヴァーゲンザイル伯爵家ではすべての騎士に一頭ずつ割り当てられている。騎士、だから馬に乗っているのは当たり前と言えば当たり前かもしれないが、ルークのような平民騎士にまで、伯爵家が費用負担して馬を割り当てているというのはかなり珍しい例になる。
馬にかかる経費は、購入費はむろんのことながら、馬小屋の賃貸料金、飼い葉の費用、馬丁の雇用など、かなりの額にのぼる。大抵の貴族家では、「馬を持っている者を騎士として雇用する」から、馬の購入費・維持費は騎士個人の自己負担である。
騎士は貴族階級出身の者でなければなれない、という法はないが、馬は自前、という時点で事実上、平民は排除される。
実際、ギュラー伯爵家では、伯爵家の分家、分家の分家、分家の分家の分家、等々の子弟が騎士団の騎士を占めている。
ヴァーゲンザイル伯爵家では、馬は「お仕着せで伯爵家が用意」しているので、平民出身の騎士も多いのだが、これは単純に騎士団の規模が大きく、ヴァーゲンザイル一族だけでは騎士団の必要数を賄えないからである。
ヴァーゲンザイル伯爵家の領軍全体では、騎士団の割合が高く、歩兵の比率は相対的に小さい。ヴァーゲンザイル伯爵領の面積は、公爵領を上回るほど広大であり、重要な街道が幾つも走っていて、不定期に盗賊らも出没する。
このような条件の場合、機動力に秀でた騎士団、つまり騎兵を主力にした方が、治安維持のコストは下がるのだ。AからZまで、領域を二十六に分けたとして、それらすべてに駐屯兵を置いておけば費用は膨大になる。しかしAとZで同時に盗賊が出没するとか、治安維持行動が必要になることは滅多にないので、必要に応じてAの兵力をZに速やかに移動できれば、Zに駐屯兵は置いておかなくても済む。
ヴァーゲンザイル伯爵家では騎兵を特に重視しているゆえんである。
そういう事情でルークの馬は立派な軍馬なのだが、肝心のフェリックスの馬は歩みが遅いので、フェリックスに合わせた行程になる。良い馬をあてがわれても、乗馬術が大して優れていないフェリックスでは乗りこなせない。実はこの世界には「あぶみ」が無い。無い、のが当たり前だから、誰も「あぶみ」が必要だとは思いもしない。馬に乗るときには馬体を、人間の両脚で締めつける。当然、騎兵は脚の筋肉が発達していなければならないし、馬上で体を固定するには、慣れと技術が必要だ。
フェリックスの中の人は前世では馬に乗っていたわけではないし、こちらの世界でも馬に乗る機会がほとんどなかったから、最近まで、「あぶみが存在していない」という事実に気づかなかった。
なんだか違和感があるなと思いつつもそれがなにか分からず、最近になって、あれ?そういえば足を引っかけるところが無いんじゃないかい? と気づいたのだ。
毎日テレビを観ていたからと言って、いきなり異世界に飛ばされてテレビを作れと言われても無理なように、そもそも文系だったフェリックスに、前世の科学の利器を再現しろと言っても出来ないことの方が多い。
井戸から水を吸い上げるポンプを作ろうとしたことはあるが、中の構造を知らないので、頓挫している。将来的には、フェリックスの「漠然とした知識」を具現化できるエンジニアのサポートが欲しいところだが、そんな人がどこにいるのか、現時点では見当もつかない。
それに、前世の科学技術をむやみに持ち込むつもりもフェリックスにはないのだ。ある程度は、悪影響が少なさそうなものについては、多少は導入している。たとえば、洗濯板だが、洗濯板もこの世界にはなかったようなので、試しに木工で作って女中に使わせてみれば、これはもう大絶賛だった。ただ、それさえも、今のところは勲功騎士爵家の家内でしか使用させていない。
洗濯が楽になればそれで職を失う女中も出てくるかも知れないからだ。オーパーツの導入は生態系を乱すのだ。
あぶみに話を戻せば、これはもう、絶対に導入するつもりはない。これは素人をあっという間に、入門編は終えた程度の騎兵の水準にまで引き上げる技術だ。単に便利な道具というにとどまらず、軍事技術だという点が特に厄介で、この世界の「力の均衡」を崩壊せしめる可能性がある。
そういうわけで、あぶみがあればもっと楽なのになあ、とフェリックスは思いつつ、ポッカポッカとゆっくりと馬の背に乗って揺られているのだった。
フラミウス街道は古代帝国の時代、フラミウス氏族が割り当てられて整備したことからその名がある。ちなみにヴァーゲンザイル一族もフラミウス氏族である。
フラミウス街道がセンプローニウス街道にぶつかり、センプローニウス街道に移って南に向かえばベイベルにたどり着くはずだ。
街道沿いの大半は農村で、森や山も抜けるのだが、規模の大小はあるにしても宿場が道なりに姿を現すのは、これらの街道が王国の血管とも言うべき主要街道だからである。
商人の移動、つまり物資の移動はどの領主貴族にとっても命綱で、街道の整備は彼らの利益であり、義務であり、存在理由であった。
初日は数件の宿屋があるアズーリ村にたどり着いて、うち、一番上等な宿で宿泊することになった。
「ええっ!? そんな、主家の方と同部屋だなんて、そんな思い上がった真似、できませんよ!」
田舎の宿屋だから良い部屋と言っても調度も値段もたかが知れている。貴族と言うのは、体面だけで生きているようなものだから、側仕えの召使いでなければ、家臣と同部屋になることは絶対にしない。
でも相部屋で済むものを、無駄に部屋をふたつはとりたくないフェリックスだった。
「ルーク、僕は"主家の方"ではないよ。僕はダグウッド=ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家の当主で、おまえはヴァーゲンザイル伯爵家の騎士だ。同格ではないが、同じ家の中の上下関係にあるわけじゃない。
おまえは伯爵家の名代として僕の護衛の任にある。それぞれの貴族家の代表としては、同じ場所にいたとしてもおかしくはないし、そもそも護衛なんだからおまえは僕から離れないようにするべきだ。
それに何よりも」
「安くあがる ― ですか?」
ルークの言葉にフェリックスはうなづいた。
「あーまあ、坊ちゃんらしいって言えばらしいですね」
「おまえは僕を守銭奴かなにかと思ってるのか」
「いえいえ、守銭奴とまでは思ってませんよ。守銭奴のタマゴくらいかなあと」
「勲功騎士爵家の身代は伯爵家とは違うのさ」
「伯爵家ほどは経費がかからない、それでいて准男爵家数家分の莫大な上りがあるダグウッド家がそこまでしぶくならなければならない理由もないでしょう」
フェリックスはルークの言葉に動揺しつつ、それを押し隠すかのようにきつい視線でルークを睨んだ。
「ご心配なく。そのように見ているのは伯爵様と文官の幾人か、騎士では私くらいのものですよ。騎士はカネの出どころなんて気にはしないですからね」
「ルーク、おまえはいったい何者だ?」
「何者って、十二年前からヴァーゲンザイル伯爵家に奉公している美青年ですよ。相部屋の件でも、フェリックス坊ちゃんはその手のお相手をご所望なのかと。ま、お望みならばやぶさかでもないですけどね、坊ちゃん、顔立ちだけは可愛らしいから、中身はともかく」
「話を逸らすな。それに僕は、そんな下卑た話は好きじゃない」
この世界にも同性愛はあるし、禁止も奨励もされていないが、同性愛や同性愛者を笑い物にする風潮はある。特に男同士では、同性愛の話を絡めて、ギャグにして
その手の連中がフェリックスは大嫌いだった。フェリックスは同性愛者ではないが、ただの性的嗜好を相手が少数で孤立しているからと言って笑い物にしようとするその性根が、いじめと同じだと思うからだ。
「ルーク、僕を失望させるな」
お笑いの中には必ず暴力の要素が含まれている。それにいちいちめくじらをたてるほど、フェリックスも潔癖症ではないが、悪意に鈍感すぎるのは、うんざりとする。
「申し訳ありませんでした」
ルークは素直に姿勢を正して深々と謝罪した。その表情は場を取り繕っているものではなく、心から後悔しているように見えた。
「言い訳をさせてもらうならば、余所者の平民が生きていくためには時には、いえ、ほとんどの時間を下卑た"冗談"に迎合してあわせていかなければなりません」
「それが"みんなのルーク"か」
「ええ。だからフェリックス坊ちゃんは恐ろしいのですよ。あなたみたいな子供が、どうして何もかもを見通していらっしゃるんですか。私はずっとあなたが恐ろしい。そして ― なぜだかこうして近づいてしまうんですよ」
「そうやって仮面ばかり見せていればそのうち自分を見失うことになるんじゃないかな」
「もうそうなのかも知れませんね。それでも私はここで生きていかなければなりませんから」
さて、旅の初日の夜で、いきなりフェリックスはルークの核心に入り込むことになりそうだった。
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