第11話 冒険者とは

 冒険者とは、簡単に言えば非正規雇用の何でも屋だ。失業者スレスレであり、実際、食い詰めた者が冒険者になりやすい。

 しかし冒険者になるのは簡単だが、冒険者で居続けられる者はほんの一握りだ。依頼をこなせなければ報酬が手に入らず、報酬が手に入らなければ冒険者ギルドに対して人頭税を支払えない。

 冒険者とは、社会的落伍者をひとまとめにして、その後の処分をし易くするための肩書のようなものだ。働き口がなく、食い扶持がないから冒険者になるしかなく、「冒険者になるしかない者たち」には冒険者として自立して生計をたてるためのスキルが無い。

 新人冒険者の八割は一年二年以内に、未熟な仕事のせいで命を落とすか、そうでなければ税金滞納の犯罪者として、鉱山などの流刑地に送られる。

 百年が一日のごとく、経済が停滞している社会では必要な制度だとも言える。経済がほぼ横ばいでしかない中、人口は指数関数的に増加する潜在的な傾向があるからだ。

 これを何とかするための腹案がフェリックスにないわけではないのだが、マクロ経済には今はとても手が出せない。

 この世界に生まれてこの方、見て見ぬふりだけは上手くなったと思うフェリックスである。この国の経済においていったい何が原因で何が起きているのか、分かっているのはフェリックスだけだ。

 アビーやマーカンドルフ相手に話しても、何を言っているか理解さえされないだろう。教えて何とかなる状況ではない。

 冒険者一つとっても、人口圧力を冒険者の蕩尽という形で解消することで、蕩尽される当人たちを含めて「自己責任」に落とし込むことが出来、生存者たちのために彼ら敗者たちは命までも奪われてゆく。命を奪っている者たちは自分たちが奪っているのだと気づきもせず、奪われている者たちは自分たちが誰かの犠牲になっているのだということさえ理解しないまま、死んでゆく。

 状況は極めて悲惨ながら、ある意味、調和は取れているとも言える。

 その調和を、平和と呼ぶのであれば、平和とは、虐げられている者たちにとっては最悪の鎖でしかない。

 しかしながら、今は為政者として、その平和を利用しつくすだけのことだ。フェリックスはその程度には覚悟を固めている。


 治安組織は政府には必ず必要なものだが ― それ自体は何ら生産に関与しない。ラインとスタッフで分ければ、スタッフそのものであって、無くて済むのであれば無い方がいい。

 ダグウッド村では必要に応じて自警団を組織することでこれまで対応してきた。常設の治安要員を雇うほどの余裕もなければ必要もなかったからだ。だが、外部者が今後、流入するようになれば必ず必要になってくる。

 領民に対する刑罰は、領主が裁判権のすべてを掌握している。王国刑律という指針はあり、そこから外れれば監察官の介入はあり得るのだが、大抵のことは領主が処理してしまう。

 ダグウッド村ではこれまでそもそもほとんど犯罪は起こらなかったし、起こったとしても、村の長老たちの進言に従って、ゲンコツ一個とか、罰として草むしりとか、程度がひどくても罰金刑で済むようなことがほとんどだった。

 懲役刑が必要な犯罪はほとんど無かったのだ。だが、今後はそういうこともあり得るだろう。

 単に武力制圧力で言えば、フェリックス自身は除外してもマーカンドルフがいるのだから、騎士団の騎士五十人くらいが攻めてきても勝てる程度の戦力はある。ただ、勝てるか勝てないかのデジタルな対応はできるのだが、どの程度か、という程度の処理はしにくい。

 極端に言えば執行猶予か死刑か、しかオプションが無いようなものだ。

 長期にわたって留置したり、懲役を科すために刑務所をたてたりすれば、莫大な経費がかかるし、そのためのスタッフを雇用しなければならない。

 出来れば避けて通りたいのだが、問題が表面化する前に、あらかじめそのための態勢を作っておかなければ、今後の領地経営を進展させることも出来ない。

 そのための、治安組織を冒険者で賄おうというのが、フェリックスの今回のベイベル行きのそもそもの目的である。


 刑罰と言うのは、簡単であるべきなのか、複雑であるべきなのか。

 確実に言えるのは、人間の本能的な正義感覚に沿っていなければならない、ということだ。

 前世ではフェリックスはけっこうな読書家で、若い時には特に各国の名作文学を読み漁ったものだった。権威権威でまつりあげられているが、名の知られた名作というものは大体が「面白い」のである。同時代人は大体が娯楽として読んだのだから当然であって、各国の様々な時代の文学を読むにつけ、フェリックスの中の人が思ったのは、まさしく「日の下に新しきものなし」ということだった。

 世の人の感情や苦しみ、喜びはどこでもいつでも同じであって、正義自体は相対的なものだけれど、人間の正義感覚は、ほとんどホモサピエンスとしての種に根差す、普遍的なものだというのがフェリックスの中の人の考えだった。

 刑罰はその普遍的な正義感覚に沿っていなければならないというのが今現在のフェリックスの考えであって、そのためには刑罰はある程度、単純でなければならず、一方で十分に複雑でなければならない。

 法治主義は法家思想と言う形で、古代中国において芽生えたのだが、秦を強国にならしめた法家思想は枝葉枝末の形式主義に陥り、かえって人間普遍の正義感覚からずれてしまった。

 劉邦が秦地を収めるに際して、「法三章」、殺すな、盗むな、傷つけるな、だけを法律として掲げたのは、それ以前の形式主義的な法家思想による牢獄があったからこそ、解放思想として機能したのだ。

 「法三章」はあくまで非常時のスローガンであって、統治機構を整えるにあたっては当然、もっと複雑化したはずである。同じ殺人でも、何の咎もない女を犯して殺すのと、襲ってきた盗賊を撃退して殺すのとでは全然、意味が違うはずだからだ。意味が全然違うものを同じものとして扱うことは、普遍的な正義感覚に反する。だから法は簡単すぎても長続きしないはずだ。

 複雑な事案が発生する時には、司法も複雑な事案に細やかに対応できなければならないのだ。

 今のダグウッド村では、長老たちの意見を聞きながら、なあなあで済ますか、そうでなければ死刑、というような極端な二者択一しか選択肢がない。

 悪意を持って盗みを働いた者に対しては草むしりでは軽すぎるし、死刑では重すぎる。妥当な量刑を提示できない政府は、最終的には信用をなくす。

 ただ、今のダグウッド村には、妥当な量刑を維持適用するための行政組織がそもそも存在していない。

 早急に手を付けるべきだった。

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