第10話 インフラ整備
本当は、天然記念物物、世界自然遺産級であるのだが。
大湿地帯を見ながら、出来ればこの景観を保全したいんだけど、とフェリックスはため息をついた。この湿地に名前などはない。使えない土地は使えない土地に過ぎず、どうこうしようという発想が誰にもなかったからだ。
フェリックスは、湿地と言えばパンタナールでしょう、という感じで、内々でパンタナールと命名していたのだが、名もなき湿地として、放っておかれるほうがこの湿地にとっては幸福であったのかも知れない。
湿地の果てには三千メトル級から成る急峻なビヴァル山脈が連なり、その向こうには、魔獣たちの生息する魔域が広がっているはずである。
考えようによっては、手つかずのフロンティアが一番近づいた場所にダグウッド村は位置しているわけで、ここを拠点にして開拓を進めていこうとする者が今までいなかったのが不思議なほどだった。
そのためのフリーハンドをフェリックスは握り、そのことをフェリックスだけが知っている。
いざとなれば、この土地を捨てて、湿原の向こうに新しい国を建ててもいい。
まあ、それはあくまで、いざとなれば、の話だ。
ただ、そのための準備は進めていかなければならない。
上司にケンカを売る場合は会社を辞める覚悟が必要で、会社を辞めるには、貯金が必要だ。協調性は必要だが、最終的にはケンカも売れる準備はしておかなければ、仕事も人生もままならない。
湿地の岸辺に沿って、フェリックスは馬を走らせる。
フェリックスにしてみればやりたいことの十のうち二も出来ていないのだが、世間的に見れば十分に爆発的なヴァーゲンザイル勲功騎士爵家の成長によって、ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家の所得もうなぎのぼりに増えている。馬も新たに三頭購入したから、マーカンドルフにもアビーにも駆けずり回って貰っている。
(本当は水が抜ける冬季のうちに工事をやってしまいたいんだけど、まあ、無理だなあ)
パンタナールの洪水は、非常に穏やかなものだ。水位が少しずつ上がって、あたり一面を水浸しにする。湿潤期になっても手配さえできれば工事は出来なくもない。
ダグウッド村には大工は一人しかいないが、それではとてもインフラ需要を賄えない。領主権限で、親方に筋のよさげな男十五名を選ばせて、見習い兼労働者として雇わせていた。当面は人件費は貸付援助しているが、需要は大きいのだから、そう遠からず親方が自分でやりくりできるようになるはずだ。
単純労働者が小作と言う形で移住してきたので、それまで家業を手伝っていた「厄介」たちが大量に余っている。彼らは家を継がない次男三男、次女三女らで、事実上それぞれの家の奴隷も同然の扱いだった。
彼らを食わせられるくらいにはそれぞれの世帯の所得も増えているのだが、仕事は無くてただ食うだけならば文字通りのごくつぶしだ。
彼らに農業以外の仕事をあてがうことが出来れば、技術集団をフェリックスは自領で賄うことが出来るようになる。
AをするためにはBが必要で、Bを行うためにはCが必要で、Cを実行するためにはDが必要で、と、フェリックスの施策は非常に遠回りに見える。
大規模な工事を行うためには技術者や人足が必要で、彼らを収納できる宿泊施設、彼らの世話をする女中・管理人らが必要だ。無い無い尽くしのダグウッド村では、そこから養成していかなければいけないのだ。
そういう中で、光明も見出している。
例えば教師だ。
年齢の上下に関わらず、覚えが非常によく、勉強にも意欲的な生徒が何人か出てきている。彼らは他の者に聞かれれば、嫌がりもせずに丁寧に他の生徒に教えている。
彼らの内、十人を選抜して、夜間に特別授業を施すと同時に、給与を支払って初級クラスの教師をやらせてみている。
フェリックスが彼らに教えているのは、算数、科学全般、読み書きの三本柱だが、学校に通って一年に満たないのに、十歳から十八歳までの彼らは、算数についてはすでに中学生のレベルに達している。
一部、統計や確率について踏み込んでいるが、それを教えるときにはマーカンドルフやガマ、アビーらも出席してその概念の有用さに感嘆していた。
そもそも、算数数学では、この世界では漢数字と同じ理屈で働く「文字」数字しか存在しない。零の概念がないのだ。フェリックスはアラビア数字を導入している。もちろん、ダグウッド村以外で働く場合も考えれば、漢数字方式での計算も教えているのだが、アラビア数字を導入することで生徒たちの思考もクリアになりやすい。
彼ら教師見習いたちは、教師として有用であるだけでなく、ダグウッド村の官僚組織の礎になってゆくだろう。
「ベイベルまで、足を延ばしてみようと思う」
「何をしに行かれるのでしょうか?」
マーカンドルフが来てから、食事の給仕役は再びマーカンドルフの仕事になっている。あくまで執事としてこの仕事は、マーカンドルフがゆずらないのだ。
手間を考えれば食事はマーカンドルフも同席して済ましてくれた方がフェリックスとしては有難いのだが、主人と雇われ人の境目を曖昧にするのはよくないとのマーカンドルフの巌とした主張によって、マーカンドルフが食卓を共にすることはないのだが、この場にマーカンドルフがいるのは事実なので、アビーに報告ともども、フェリックスは大抵のことは食事の席で「ホウレンソウ(報告、連絡、相談)」を済ませている。
ベイベルはヴァーゲンザイル領を抜けて南東、馬の脚で進んでも十日は見ておくべき距離にある町だ。辺境の中心都市のひとつだが、魔域に直接臨していることから、一発勝負狙いの冒険者たちが集まる町として知られている。
冒険者ギルドのシステムはボーデンブルク王国に存在するのだが、冒険者は偏在している。都市部やその郊外では、彼ら最大の収入源である魔物討伐の仕事が出来ないからだ。もちろん、護衛や雑用を中心に仕事をこなす者たちもいて、王都などには冒険者ギルドは存在するのだが、この近隣ではベイベルにあるものが唯一になる。
「護衛として私もついていきましょうか?」
マーカンドルフの申し出に、フェリックスは首を振った。
単純に戦力として言えば、フェリックスはマーカンドルフに数十倍するのは、フェリックスもマーカンドルフも知っている。
ただ、フェリックスが魔法使いであることは極秘である。
マーカンドルフが魔法使いであるのは世間に知られている。
フェリックスは実際としても少年だし、見た目もいかにも与しやすそうな優男だ。言いがかりをつけられそうなタイプであるし、言いがかりをつけられたくらいで、大量虐殺魔法を発動させるわけにもいかない。
こういう時に、適当な護衛がいないのも、ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家の弱点のひとつだ。
「マーカンドルフにはやってもらうことが山ほどある。護衛なんかで息抜きはさせていられないよ」
フェリックスはそういって笑った。
まあ、敢えて借りを作るのも外交の手段ではある。前世、フェリックスの中の人が仕事で上司としっくりいかなかった時に、敢えて相談事をして関係をなだらかなものにしたことがあった。
弱みを見せるのも、外交の内ではある。
護衛については、ヴァーゲンザイル伯爵家から一人、騎士を借りることにした。
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