第2話 商業のいしずえ
ボーデンブルク王国では貴族は二系統に分かれている。
宮中貴族と領主貴族だ。
宮中貴族の爵位は上から順に、大公、侯爵、子爵、男爵とあり、それと対応する形で、領主貴族の爵位が公爵、辺境伯爵、伯爵、准男爵とある。大公と公爵は同格、侯爵と辺境伯爵は同格、子爵と伯爵は同格、男爵と准男爵は同格なのだが、式典儀礼では厳密に言えば、大公-公爵-侯爵-辺境伯爵-伯爵-子爵-男爵-准男爵、の順序になる。他に、宮中貴族、領主貴族共通の爵位として勲功騎士爵と名誉騎士爵がある。勲功騎士爵は世襲可能で、名誉騎士爵は一代限りだ。これは厳密に言えば爵位ではなく、貴族の家族、一族、家臣になるのだが、実際には領主勲功騎士爵家の場合は、独立した貴族になる。
フェリックス・ヴァーゲンザイルはヴァーゲンザイル伯爵の嫡出の男子としては名誉騎士爵であり、フェリックス卿と呼ばれる。同時に独立した領主勲功騎士爵でもあり、そちらの意味でもフェリックス卿と呼ばれる。
フェリックスの妻のアビゲイル、アビーの場合は若干ややこしい。
彼女はギュラー伯爵家の三女であり、ギュラー家の人間としてはレイディ・アビゲイルと呼ばれる。ヴァーゲンザイル勲功騎士爵夫人としてはレイディ・ヴァーゲンザイルと呼ばれる。
このレイディ・ヴァーゲンザイルという呼ばれ方だが、これは実はヴァーゲンザイル伯爵夫人と同じである。今のヴァーゲンザイル伯爵夫人はアビーのすぐ上の姉、ザラフィアで、彼女はヴァーゲンザイル伯爵夫人もしくはレイディ・ヴァーゲンザイルと呼ばれる。先代の伯爵夫人、フェリックスの母のローレイはいまだ健在なので、彼女もレイディ・ヴァーゲンザイルと呼ばれるのだが、このため、レイディ・ヴァーゲンザイルは三人存在することになる。
区別するために、ローレイはマダム・ローレイ、もしくはマダム・ヴァーゲンザイルと呼ばれ、アビーはレイディ・アビゲイルと呼ばれている。
それはともかく。
ボーデンブルク王国にはいまだ発達した官僚組織がなく、緻密な徴税は不可能である。そのため、王家は領主貴族たちに対しては事実上の人頭税を課している。北東部の公爵であれば毎年いくらいくら、伯爵であればいくらいくら、という形だ。
爵位は領地の規模と連動している。伯爵家であれば二十ヶ村以上を領有していなければならない。それもあって領主貴族は土地を分割して相続させることを非常に嫌がる。伯爵家の場合、十九ヶ村以下の領有になれば家格を維持できず、准男爵家に転落する。
一ヶ村だけであっても、結果的に三男でありながら領主になれたフェリックスは非常に運がいいとみなされていた。
領主勲功騎士爵家もむろん、王家に対して納税義務を負う。逆に言えば人頭税的なこの納税さえ行えば、あとはどれだけ産業が発展しても、フェリックスのぼろもうけである。
商人についてはいずれかの組合に属していなければならない。
商人がどれだけの利益を上げているかいちいち確認する能力のない王家は、組合を通して非農民に対して課税をしているのだ。
商人同士であればだいたい売れ行きを見ていればあそこの身代はこれくらい、今年はこれくらいは儲けていそうだというのが分かる。それぞれの組合が調査を行って、商人に対しては課税額を決めている。
そのため、組合員以外が商業活動を行うことは禁じられている。
独占、寡占の傾向があって、食料品以外の物価は総じて高い。
ダグウッド村には商店はない。
なるべく早い段階で、商店を誘致したいとフェリックスは考えている。勲功騎士爵家は、ヴァーゲンザイルの町まで足を延ばして商品を購入することが可能だが、ダグウッド村の村人は不定期に訪れる流れ商人だけが頼りだ。
ダグウッド村の村人の可処分所得は少なく、辺境まで足を延ばせば流れ商人にとっても赤字になってしまう危険がある。だが、ダグウッド村の村人の可処分所得も二倍になった。今後さらに増えていくだろう。
フェリックスは前世では大学で経済を学んだので、経世済民、民を豊かにするのが自分の今生の務めだと思っている。
可処分所得が二倍になった、わーい、やったー、と村人に思ってもらうためには消費できる場が必要だ。そう思って貰わないことには税率を七割にしたことに意識が行ってしまって、フェリックスの立場が危うくなる。
フェリックスは村人に御用聞きをして、ヴァーゲンザイルの町まで「買い物代行」することでとりあえず、豊かになったと実感してもらっている。
そこでいくらか利ザヤを稼ごうものならフェリックスは商人になってしまうので、組合に属していないフェリックスが商業活動をしていると見られれば下手したら王国政府から謀反人として処罰されかねない。
策を弄せば何とかならないこともないが、フェリックスはわずかな利ザヤのために危ない橋を渡るつもりはもうとうない。
そのため、ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家が養っている一頭だけの馬に、荷台をつなげて、商品を運ぶため馬丁に定期的にヴァーゲンザイルの町におもむかせている。その経費を考慮すれば、フェリックスの完全な持ち出しだ。
馬を商品の運搬に使っているため、ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家は馬車を使えない。所要があって、ヴァーゲンザイル宗家に赴く時など、フェリックスは歩いていくのだ。
馬はとにかく食べる量が多いので、ヴァーゲンザイル勲功騎士爵家の今の身代では二頭目を飼うのはためらわれる。
フェリックスは兄二人とは大して仲良しではないが、アビーは姉二人とはなかよしだ。アビーをダグウッド村からほとんど出さないことについては、ヴァーゲンザイル伯爵夫人からもギュラー伯爵夫人からも苦情を言われている。
「いや、そちらが馬車を出して迎えに来てくれたらいくらでもアビーを遊びにやれるんですが」
と喉から出そうになってもその言葉は言えない。フェリックスにもプライドはあるのだ。
アビーの姉たちは伯爵家の暮らししか知らない。勲功騎士爵家がどれだけつつましいレベルで試行錯誤をしているかなど想像もつかないのだ。
フェリックスだって貴族なんだから馬車の一台や二台どうとでもなるでしょ、くらいにしか思われていない。フェリックスが歩いてヴァーゲンザイルの町まで行くのでも、「健康のために歩いているんです」という言い訳を疑いもせずに信じている。
悪い
アイリスおばあさまは人の言葉の裏にある思いや事情に敏感だった。
アビーもそうだ。
どれだけ強がっていても、アビーはフェリックスの感情を必ず見抜く。アビーには嘘は通じない。
いとこ同士の結婚。
先代に続く、ヴァーゲンザイル家とギュラー家の結婚。
ヴァーゲンザイル家とギュラー家は固く結びつき、何事にも一心同体の姿勢でことにあたっている。複数の大貴族が互いに勢力を競っている北東部で、ヴァーゲンザイル・ギュラー連合はいずれの勢力からも一目置かれる堅牢さを誇っている。
政略結婚の意味があるのは確かだ。
それでも。
フェリックスはアビーと結婚できたことを自分の人生の中で一番の幸運だったと思うのだった。
「あーあ、商人をなんとか手配しないとなあ」
「ねえ、フェリックス。ヴァーゲンザイルの町で見つからなかったなら、ギュラーの町の方で探したらどう?」
「…うーん。コンラート兄さんがなあ」
うぉりゃあ、フェリックス。てめえ、オレのシマでなにさらしとるんじゃヴォケイッ!
コンラートはそういうことをいいそうな"次兄"である。
ギュラー家の長女キシリアと結婚してギュラー伯爵家を継ぐ話がまとまるまでは、コンラートは王都に出て軍人になる気まんまんだった。
知性派のフェリックスは、体育会系の次兄とはどうも肌合いが悪い。
悪い人じゃない。むしろあと腐れのない涼やかな人だとも言えるだろう、とフェリックスは思う。でもなあ…。
兄とは弟をいたぶるもの。俺の屍を越えていけっ!
猫が
「…じゃあ、おばあさまに頼ればいいんじゃない? おばあさまならコンラート兄さまも頭が上がらないでしょ?」
「いやいや、おばあさまは亡くなったじゃないか」
「ねー、フェリックス。トラは死んでも皮を残すっていうよね。おばあさまは亡くなったけど皮はのこっているんじゃない? 皮をかぶればネコのフェリックスもトラのふりができるよ。にゃーお」
ヴァーゲンザイル勲功騎士爵夫人はヴァーゲンザイル勲功騎士爵ににっこりと笑った。
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