第161話

「聖下の"英雄"にお会いしてみていかがでしたか、猊下?」


 教理省の執務室でルドルフに問うたのは、ハスキーな女の声だった。


「報告書で感じた通りの人物ではあったな。だが、それは教国のため――ひいてはこの世界のために献身すべきだ」


 窓辺から、クリフォトの象徴たる教皇庁を見つめる偉丈夫の返答は限りなく断定的だった。


「彼を味方につけることは容易ではないと思うのですが」

「分かっている――それでも、彼が我らの側につくことになれば、教国の未来はより輝かしいものになるだろう。彼の力があれば、"奴ら"を根絶やしにすることも夢ではない……いや、根絶やしにせねばならんのだ」


 アデル・フォン・ヴァインベルガーについてまとめられたファイルを眺めながら、枢機卿は熱い息を吐いた。


「おそれながら、それは聖下のもとであっても可能なのではないでしょうか? "奴ら"の存在を知れば、きっと聖下も猊下と志を同じくされると思われます」


 美貌の横顔にかすかな逡巡の色がある。

 彼女は自らの発言を静かに捕捉した。


「"奴ら"は世界の敵です。その存在を知れば、わざわざ目を背けるような方ではないと思われますが?」

「そんなことは分かっている。だが、聖下は優しすぎるのだ」


 朝日が教皇庁の壁に反射し、周囲を明るく照らす。

 だが、それを睨むルドルフの瞳は冷たく、厳しい。


「別に今の聖下が悪いというわけではない。平和な世であれば、十分すぎるほど教皇の役目を果たされていると言えるだろう」

 

(そう、平和であれば何ら問題ないのだ……)


 ルドルフとて、"奴ら"の存在を知らなければ今も主席枢機卿として教皇を献身的に支えていたことだろう。

 それが教国の未来にとって唯一の道であると信じて、疑うこともなかったはずだ。

 しかし、彼は知ってしまった。


 世界の敵たる"奴ら"の存在を。

 四百年前から現在いまに至るまで、この世界に平和など訪れていなかったのだということを。

 一見すると平和に見えるこの平穏な日常も、神が気まぐれに与えたものでしかなかったのだということを。

 気づかなければよかったと悔やまなかったことや、"奴ら"の存在に絶望しなかったことは一度や二度ではない。

 気づきさえしなければ――。

 

 だが、こうして気づいてしまったのであれば、立ち止まるわけにはいかなかった。

 進むしかなかった。

 神の代行者として、"奴ら"の存在を見過ごすことなどできない、できるはずがない。

 ルドルフは志を同じくする者を集め、内外に強硬策をもって臨んだ。

 伝統を重んじる保守派の枢機卿たちは当然のことながら反発した。

 ルドルフのことを反逆者とさえ呼ぶ者もいる。

 今まで支えてきた教皇に反旗を翻す行為に繋がるのだから、そう思われたとしても仕方のないことだと自覚している。

 だからなんだというのだ。

 傍観するだけでは何も掴めはしない。

 進むしかないのだ。


「反逆者? ふん、どうとでも言うがいい。誰かが泥をかぶらねばならんのだ。その覚悟がなくば我が国は――世界は救えん!」


 徐々に空へと昇っていく日の光を映した瞳にあるのは、世界を救うという強固な信念だった。

 もし、このまま見てみぬふりを続けていれば、そう遠くない未来、再び暗黒の時代を迎えるだろう。

 それだけは何としても避けねばならない。 


「例え後世に自分の名が悪名として残ろうとも構わん。誰かが手を汚さねばならんことなのだ……」


 短く呟いて、ルドルフは窓に背を向けた。


「オフィーリア、そちらの首尾はどうだ?」

「はっ、万事順調に進んでおります」


 急に鋭いものを眼光に含ませた主君に対し、背筋を伸ばしたオフィーリアは几帳面な口調で答えた。

 ルドルフのいう首尾とは、反教皇派のことを指している。

 教皇の恩寵を受けた豊かで美しいクリフォト教国だが、この国には裏の顔も持ち合わせていた。

 それが反教皇派だ。

 彼らは、クリフォト教国建国当時から"クリファ"を信仰している――クリフォト教国四百年の闇そのものといえる集団である。

 教皇庁も幾度となく排除しようとしてきたが、いまだ根絶するには至ってはいない。

 ルドルフはその反教皇派を利用して、保守派と反教皇派の両方を排除しようと計画していた。

 しかし、反教皇派は"クリファ"を信仰する狂信者の集まりだ。

 それを利用するということは、少なからず教国の民に被害が出ることを意味する。


(やむをえん)


 そう、仕方のないことなのだ。

 一切の犠牲なき勝利などあり得ない。

 それこそ、何も知らない子どもの憧れにも似た幻想のようなものでしかない。

 そんなことができる存在が本当にいるのであれば、とっくの昔に"奴ら"を根絶やしにしてくれているはずなのだから。

 だが、少なくともルドルフの前に現れてはくれなかった。


「よろしい。くれぐれも気取られることのないように細心の注意を払うのだ」

「お任せください。必ずや遂行してみせます」

「君はいつも私が望む答えを返してくれる。これからも頼りにしているぞ」

「もったいないお言葉です、猊下」


 ルドルフの言葉に、オフィーリアは規律正しく一礼する。

 

「では、これより任務に戻ります。ここ数日中に必ずや猊下――ひいてはこの国にとってもっとも望ましい形にしてみせましょう」

「うむ」


 これでもう後戻りなどできはしない。

 元より留まるつもりもない。


 再び、窓の向こうに映る教皇庁を睨むルドルフの顔にあったのは、この世界の真実と正面から向き合い、己が信念だけを友にそれを征服しようとする老獪な王者の覇気だけだ。

 

「往け、オフィーリア」

「御意」


 オフィーリアは恭しく会釈をして部屋から立ち去った。

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