第160話
夕暮れが教皇庁の庭を柔らかな影で満たしている。
蝋燭の灯りがそれぞれの光を煌めかせ、古い壁に幻想的な光景を描き出していた。
庭園には花の香りが漂い、噴水からは水のせせらぎが静かに響く。
晩餐会は、教皇庁の中庭で開かれた。
幾つも並べられた大理石のテーブルには真っ白なテーブルロスが引かれ、その上には普段お目にかかれないような料理の数々が湯気を上げている。
その脇に花で飾られた美しい器が並べられていた。
小鳥たちの歌声が遠くから聞こえ、和やかな雰囲気が会場を包み込む。
しばらくすると真紅の法衣を纏った枢機卿たちが姿を現し、各々が決められたテーブルの席に礼儀正しく静かに座る。
しかし、彼らは贅を極めたテーブルにほとんど見向きもしない。
視線はある一点――教皇庁の入り口に集中していた。
やがて、入り口から教皇アイリスと側近のベネディクトが姿を現す。
続いて現れた少年たちに、枢機卿たちの鋭い眼差しが向けられる。
彼らの顔には、興味と疑念が交錯していた。
アイリスからアデルの特徴を伝えられてはいたものの、想像していた以上に若いことに内心驚く。
だが、それを顔に出す者は誰一人としていなかった。
ひと際大きなテーブルの席に着いたアイリスは穏やかな笑顔を浮かべる。
「こうして集まってくださった枢機卿の皆さまにまずは感謝を。この晩餐会は、私たちの絆を深め、新たなる友情を築くためのものです」
その言葉は、優雅な音楽のように耳に心地よく響いた。
「さて、皆さまも気になっているようですし、今宵の晩餐会の主役を紹介しましょう。レーベンハイト公国からお越しいただいた、アデル・フォン・ヴァインベルガー様です」
枢機卿たちの視線がアデルへ集中する。
それはどこか値踏みするようなものだった。
「はじめまして。教皇聖下よりご紹介にあずかりました、アデル・フォン・ヴァインベルガーと申します。教国を担う枢機卿の皆さまにお目にかかれて、光栄です」
アデルの会釈は、まるで舞踏するような優雅さを持っていた。
頭を軽く傾け、目線を落ち着かせながら、枢機卿たちに礼を述べる。
その仕草は決して高慢ではなく、むしろ謙虚さと尊厳を湛えていた。
枢機卿たちの間から、アデルの優雅な会釈に対する驚きと称賛の声が漏れる。
彼らは、その姿勢からアデルが敬意と品位を持っていることを感じ取ったのだ。
彼の優雅な振る舞いによって、枢機卿たちの心に好意が芽生えるのは当然のことだった。
アデルのおかげもあってか、その後のリーゼロッテやシャルロッテの紹介も和やかな雰囲気で迎えられた。
◇
「アデル、大丈夫……?」
「大丈夫です、と言いたいところですが、さすがにちょっと疲れてきましたね」
「そうだろうと思ったわ。はい、これでも飲んで一息つきなさい」
「ありがとうございます」
アデルは、リーゼロッテから手渡されたオレンジ色の飲み物が注がれたグラスを口に運ぶ。
一口飲むと、柑橘系の香りが鼻腔をくすぐり、心地よい酸味が舌先を刺激する。
グラスをさらに傾けると、そのまま滑らかにアデルの口の中に流れ込んだ。
心身が少しだけリフレッシュされた気がした。
晩餐会が始まってからというもの、ずっとアデルは代わる代わるやってくる枢機卿たちと挨拶をしていた。
自己紹介の挨拶が功を奏したのか、枢機卿たちの挨拶はどれも好意的なものばかりだった。
保守派だろうと強硬派だろうと関係なくである。
保守派にしてみればアイリスと深い繋がりのある相手であるし、強硬派にしてみればアデルという存在は、クリフォト教を布教する良いプロパガンダになると考えたのだ。
アデルに取り入ろうと自身の邸宅に招こうとする者も一人や二人ではなかったが、アデルは相手が気分を害さぬよう全て丁寧に断った。
そうして、枢機卿との挨拶がようやくひと段落したところにリーゼロッテがやってきたというわけだ。
ひと段落したといっても、庭中からこちらに集中している視線に注意を引かれてしまっている状況は続いているのだが。
「……歓迎され過ぎるというのも困ってしまいますね」
それでも疲れた表情も素振りを周囲に感じさせないのは、アデルだからこそ出来る芸当だろう。
「疲れたのならアイリス様に伝えましょうか?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、それにはおよびませんよ」
教皇主催の晩餐会である。
そこで主賓の一人であるアデルが席を外したのでは、アイリスの顔に泥を塗ってしまう。
それは避けねばならない。
「本当に大丈夫? 無理はしないでね」
「もちろんですとも」
「ならいいけど……」
リーゼロッテがしょんぼりして顔を俯く。
アデルとしては無理をしているつもりなどないのだが、傍で数多の枢機卿たちと挨拶を交わす姿を見ているリーゼロッテからすれば、愛するアデルに休んで欲しいと思うのは仕方のないことだった。
アデルは隣で俯くリーゼロッテの顔を覗きこんで微笑みかける。
「そんなに心配されなくても大丈夫ですよ、リーゼロッテ。心配されるほどのことは何もしていませんし、それに貴女のその優しい気持ちが私に力を与えてくれますから」
「でも……」
アデルの言葉は十分に暖かかったが、リーゼロッテの表情は曇ったままだった。
それだけアデルのことが心配なのだろう。
(公の場でなければ別の方法もあるのですが……)
さすがに多くの視線を集めている状況で抱きしめたり、頬にキスをするわけにはいかない。
場合によっては周囲が見ていようと構わないこともあるが、今はその時ではないのだ。
そこで、アデルは行動ではなく別の言葉で示すことにした。
「リーゼロッテ、好きですよ」
「ふぇっ!?」
バッと顔を上げるリーゼロッテに、アデルはもう一度にっこりと微笑みかける。
「……わ、私も好きよ、アデル。って、なんでいきなり言うのよ! 恥ずかしいじゃない……」
「リーゼロッテの曇った顔をどうにかしたいと思いまして。いけませんでしたか?」
「……ダメ、じゃないわよ……」
リーゼロッテがまた俯くがそれはアデルが心配だからではなく、赤くなった顔を隠すためだった。
そんなリーゼロッテの姿にアデルは目を細める。
それが、急に姿勢を正したのは、遠くからゆっくりと、しかし、優雅な身のこなしと堂々とした姿勢で近づいてくる一人の枢機卿に気づいたからだ。
その枢機卿はアデルよりも頭一つは高い身長と、重厚な雰囲気を纏っていた。
こちらを見つめる真っすぐな視線は鋭く、高貴な顔立ちは威厳と自信に満ちている。
肌は白く、髪は濃い金色だが、一部シルバーの髪が散りばめられていた。
「お会いできて光栄だ、アデル・フォン・ヴァインベルガー殿。私はルドルフ・ピエールと申す」
ルドルフは重々しい声で挨拶した。
アデルは礼儀正しく頭を傾け、微笑みを返す。
「なるほど、聖下が英雄と評するだけのことはある……我が国は気に入っていただけたかな?」
「ええ、それはもう」
ルドルフが我が国といったことにアデルは違和感を抱いたが、あえて触れなかった。
「気に入っていただけたようで何より。英雄たるアデル殿とは、我が国の新たな未来について話がしたいと思っていたのだが、どうかな」
「今後についてではなく、新たな未来について――ですか?」
さすがに今度は触れないわけにはいけないと感じたアデルは聞き返す。
「我が国は変革が必要なのだ。古い習慣に縛られることなく、新たなる道を切り開いてゆかねばならぬ。現在の教皇庁は、その点においてあまりにも保守的すぎる。そうは思わんかね」
ルドルフは真剣な眼差しでアデルを見つめた。
彼の言葉はあまりに苛烈であり、だからこそアデルは即座に理解した。
彼は――ルドルフ・ピエールは、アイリスと対立している強硬派なのだと。
「ルドルフ枢機卿。私は――」
「アデル殿が聖下の側であることは理解している」
ルドルフがアデルの言葉を遮る。
「だが、聖下では"奴ら"をこの地上から消し去ることはできん」
"奴ら"という言葉を口にした瞬間、ルドルフの瞳が冷たく厳しいものに変わる。
「"奴ら"とは誰のことを仰っているのですか?」
「アデル殿が我らと手を組む、というのであればお教えしよう。いかがかな?」
「——お断りいたします」
即答だった。
"奴ら"について気にならないと言えば嘘になる。
しかし、だからといってルドルフの手を取る理由にはならない。
「そうか、残念だ……」
短く呟いて、ルドルフはアデルに背を向けた。
それに合わせて、カージナルレッドのローブが鮮やかに翻る。
「気が変わったら教理省に来るといい。アデル殿であればいつでも歓迎しよう」
そう告げると、ルドルフはその場を後にした。
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