第159話
「到着しました」
オフィーリアの言葉にアデルは頷くと、車から降りた。
空を見上げれば雲一つない晴れ。
絶好の謁見日和である。
アデルは次に正面にそびえ立つ大きな建物――教皇庁に視線を移す。
まるで時間の流れがそこで止まってしまったかのようだった。
その建物は古代の石造りで高い壁は厚く、堅固に築かれていた。
建物の外壁には彫刻や装飾が施されており、その細部は驚くほど緻密であった。
クリフォト教国の歴史や物語が石に刻まれているのだ。
その美しさはまるで神話の世界から飛び出してきたかのようだった。
「送っていただきありがとうございました」
アデルは折り目正しく一礼すると、まるで天使が降りてきたような笑顔を見せた。
(ばかっ! そんな顔を見せたらどうなるか分からないの……)
隣に立つリーゼロッテは顔を赤らめながら、息を漏らす。
彼なりの礼儀作法なのだが、された側からすればたまったものではない。
その破壊力たるや女性だけでなく、男性ですら反応してしまうほど強力なものだ。
普段から一緒にいて、それなりに耐性がついていると思っていたリーゼロッテでも、こうしていまだに反応してしまう。
隣で見ていてもこうなのだから、真正面からアデルの笑顔を受けたオフィーリアであればひとたまりもないはず。
そう思ってちらりと一瞥を向けたのだが――。
「任務を遂行しただけですから、お気になさらないでください」
彼女は顔を赤らめたり動揺する素振りすらなく、抑制の利いた微笑を浮かべて敬礼したのだ。
(す、すごいっ……!)
リーゼロッテは、素直に感嘆した。
アデルの笑顔を前にこのような反応を見せる女性は初めてかもしれない。
これが大人の女性というものなのだろうか。
そんな風に思案していると、オフィーリアは門の前に立つ男性に話しかけていた。
「ここから先はこの者が皆さまをご案内いたします」
彼女の言葉にアデルは目を瞬かせた。
「オフィーリアさんが案内してくださるのではないのですか?」
「私が受けた任務は皆さまを教皇庁へ送り届けるというものです。それは既に達成しております」
「そうですか……」
せっかくこうして縁を得たというのに、直ぐにお別れとは少し寂しいものがある。
そんなアデルの思いをくみ取るかのようにオフィーリアがほんの少しだけ目を細め、口を開く。
「普段は教皇庁におりますので、お会いする機会はあります。何かあればいつでもお声がけください。我々もアデルさまからお聞きしたいことがたくさんありますから」
そう告げると、オフィーリアはアデルに一礼し、制服たちとともに教皇庁へ入っていった。
代わって先ほどの神官が胸の前で両手を組む。
「ようこそおいでくださいました。大司教のファルコと申します。皆さまを謁見の間へご案内いたします」
「こちらへ」と教皇庁へ進み始めたファルコの後ろについて、アデルたちも歩き始める。
教皇庁に足を踏み入れると、まず競馬場ほどもあろうかという壮麗な大広間がアデルたちを出迎えた。
調度品はどれも賛美極まるものばかりであり、高い天井には赤い月が大きく描かれている。
その色彩はまるで本当の赤い月が存在しているかのようだった。
アデルたちの足下を埋める絨毯一つとっても、歴史の深みを感じることができる。
「教皇は審美眼に優れていらっしゃるようですね」
壁に飾られた女性の絵画を見ながらアデルが呟く。
「アデル様はお目が高いですね」
足を止めたファルコは、振り返ってアデルに微笑みかける。
「ここ、教皇庁はクリフォト教国建国時から存在している歴史ある建物です。初代教皇アルティナ様の代から、現在のアイリス教皇聖下に至るまで――数多くの教皇聖下と共にクリフォト教国を見守り、そして支えてきました」
広間の中央には銀で装飾された壮大な祭壇があり、その周りには教皇庁の高位の司教たちが祈りを捧げていた。
彼らのローブは静寂の中で微かに揺れ、厳かな雰囲気を醸し出していた。
よほど集中しているのか、こちらに気づく様子はない。
アデルたちは彼らの邪魔をしないように慎重に歩みを進める。
広間の奥にある階段を上がり奥へ進むと、アデルたちの目の前にひと際大きな扉が現れた。
「着きました――こちらが謁見の間でございます」
ファルコが扉の両側に立つ神官に目配せすると、二人は扉に手をかける。
「教皇聖下がお待ちです」
ゴゴゴ、と音を立てながら扉がゆっくりと開いていく。
「アデル・フォン・ヴァインベルガー様、リーゼロッテ・フォン・レーベンハイト様、シャルロッテ・ウル・オルブライト様をお連れしました」
謁見の間へと至る扉が開かれると、アデルたちはその荘厳な空間に息を飲んだ。
天井からは光が差し込み、部屋全体を照らし出していた。
床には美しい模様が彫り込まれており、その輝きはまるで星のようだった。
部屋の奥には、教皇自らが座る玉座が置かれていた。
座っているのはもちろんアイリスである。
隣にはベネディクトが立っていた。
謁見の間にはアイリスとベネディクト以外、教国関係者はいなかった。
アデルたちは謁見の間の中央に進む。
アデルはそこから更に一歩前に出ると、恭しく一礼した。
「この度はお招きくださりありがとうございます。レーベンハイト公国のアデル・フォン・ヴァインベルガーが教皇聖下に謁見を願いに参りました」
アイリスは静かに微笑みながら頷く。
「アデル・フォン・ヴァインベルガー、クリフォト教国教皇として貴方の訪れを歓迎します」
彼女の声は優しく、しかし力強く響いた。
謁見の間の荘厳さと相まって、アイリスの姿は神々しく見えた。
「――と、堅苦しい挨拶はこれくらいにしておきましょう。アデル様、そして皆さま。ようこそクリフォトへ」
アイリスはにこにこと目を細めて天真爛漫な笑顔を向ける。
教皇から年相応の少女へ雰囲気がガラッと変わる。
「長旅でお疲れでしょう? 本当でしたら数日ほど観光していただいた後にしたかったのですが……」
今度は眉を寄せて申し訳なさそうな表情を見せる。
(何とも表情がころころと変わるものですね)
教皇聖下として崇められているが、アイリスはまだアデルたちと変わらない年齢の少女である。
教皇庁内にアイリスと同年代の者はいない。
彼女が気を許せる相手は側仕えのベネディクトくらいしかいないのだが、そのベネディクトもアイリスとは二回り以上も歳が離れている。
教国の事情に巻き込んでしまうという申し訳なさはあったが、歳の近いアデルたちの訪問は、アイリスにとって喜ばしいことだった。
「心配いただきありがとうございます。ですがご安心ください。空の旅を満喫していましたから問題はありません」
「それならば良かったです」
「……それよりもアイリス様にお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんです。私に答えられることであればですが」
「ああ、その点は大丈夫だと思います」
「……?」
アイリスは小首を傾げる。
「実は、空港に到着した際、教皇庁直属特務部隊の皆さんから非常に手厚い歓迎を受けまして……ああ、それ自体はありがたいことなのですが」
「何か不手際がありましたか?」
「いえいえ、私たちを教皇庁まで送ってくださったオフィーリアさんにもよくしていただきました。ただ……」
「ただ……なんでしょう?」
「いえ、彼女が私のことを英雄と仰るものですから。アイリス様が何か言われたのではないかと」
「そのことですか。ええ、私が伝えました」
アイリスは「なんだ」と言わんばかりに胸をなでおろしながら頷く。
「今回の訪問の前に、教皇庁に務める全ての者にアデル様の素晴らしさを伝えたのです。アデル様こそ、クリフォト教国が建国以来400年ものあいだ待ち望んだ救世の英雄の再来である、と。もしかして……駄目だったでしょうか?」
「……そのようなことはありませんよ」
おずおずと上目遣いで言われたので、アデルとしてはそう言うしかない。
後ろの方でヴァイスが笑いを堪えているが、気にしている場合ではない。
「アイリス様。オフィーリアさんから晩餐会が催されるとお聞きしたのですが」
「そうなのです! 枢機卿の前で皆さまを紹介するので楽しみにしていてくださいね」
アイリスはぱっと顔を輝かせ、品のよさが滲む笑顔を見せた。
「アデル様」
いつの間にかアデルの隣にやってきたベネディクトが、こそこそと耳打ちした。
「……申し訳ございません」
どのような国であろうとも規模の差はあれ、派閥というものが存在する。
それは宗教国家であるクリフォト教国も例外ではない。
現在の教皇制度を支持する保守派と、枢機卿の中から教皇を選出するとともにクリフォト教を他国にも広めようとする強硬派に分かれていた。
この二つの派閥は教皇庁の中の話だが教国内には、クリフォト教ではなく"クリファ"を崇める反教皇派が存在する。
オルブライト王国でアイリスを襲ったのも反教皇派だ。
その反教皇派の動きも活発になっているということもあり、アイリスとベネディクトは牽制の意味も込めてアデルのことを英雄だと伝えたのだという。
「謝る必要はありませんよ」
(そうです。私に注目が集まるのであれば好都合ではないですか)
そもそも、クリフォト教国に来た目的が"クリファ"なのだ。
どんな困難が待ち構えていようとも関係ない。
改めてそう決意したアデルは晩餐会に臨む。
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