第158話
セフィラ空港の要人専用ラウンジは、静寂に包まれていた。
クリフォト教国の玄関口ともいうべきこの巨大空港は、巡礼や観光のために訪れる旅客で昼夜を問わず賑わっている。
それは要人だけが出入りできるラウンジも例外ではなく、いつもであれば多くの貴族たちで混雑しているはずだ。
大きな窓から差し込む光が、ゆったりとしたソファや椅子、テーブルに穏やかな光景を投影している。
しかし、今はその光景を楽しむ人々の影すら見あたらない。
だが、ラウンジが無人というわけではなかった。
一般客に代わって広間を埋め尽くしていたのは、漆黒の制服を纏った目つきの鋭い男たちだ。
制服の胸元と腕章、そして手袋には月と炎の紋章が施されていた。
普段の空港に似つかわしくない厳戒態勢の理由は、制服たちの中央でにこやかな微笑を湛えているアデルたちである。
彼らは、空港からアイリスのいる教皇庁アヴィニシオンへの道中、アデルたちの警護を任されている――教皇庁直属の特務部隊の猛者たちだ。
しかし、警護対象であるアデルたちを見つめる制服たちの表情は、こころなしかどれも柔らかいものだった。
クリフォト教国といえば、教皇が元首として存続している宗教国家だ。
教国の全ての人びとにとって、アイリスは敬愛すべき存在であり、精神的な指導者でもある。
いかにアイリス本人が事前に根回しをしているからといって、他国で彼女の身に危険がおよんだという事実は消えない。
事件発生に直接関与してはいないものの、アデルたちは厳しい視線を向けられるのではないかと身構えていたのだが――。
「皆さま。長旅、お疲れさまでした」
制服の一人がそう告げると、無数の手を叩く音が重なった。
制服たちが一斉に拍手を始めたのだ。
(……これは、いったいどういうことでしょう?)
周囲の友好的な反応を観察しながら、アデルは胸の内で独りごちた。
空路で到着後のパターンを複数シミュレーションしてはいたが、この展開は想定外だった。
「――お待たせしました。クリフォトへようこそ」
アデルたちの耳を叩いたのは、きりっと語尾をあげるハスキーな声だった。
目を上げれば、周囲の男たちと同じ漆黒の制服に身を包んだ背の高い女性が一人、制服たちを従えてこちらに歩いてきている。
燃えるように真っ赤な色の髪を結い上げた、年齢はアデルより一回り上といったところだろうか。
背筋がピンと伸びており、アデルと同じくらいの長身の女性は、律動的な足取りで軍靴を鳴らす。
恐らく立場的に上の人物なのだろう。
彼女だけフード付きの深紅の外套を羽織っていた。
ほどなくしてアデルたちの前まで来た女性は、胸に手を当て名乗った。
「遅くなり大変失礼しました。私、教皇庁直属特務部隊から参りましたオフィーリア・スコットと申します。アイリス教皇の命を受け、皆さまをお迎えにあがりました者です。外に車を用意しておりますので、ご一緒ください」
「これはご丁寧にありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」
爽やかな笑みを浮かべる女性に対して、アデルは如才ない笑みとともに、恭しく会釈する。
「実のところ、このような歓待を受けるとは思っておりませんでした」
「こんなものでは足りないと思っておりますよ。遠方よりはるばるお越しくださった英雄ですもの。もっと国をあげて皆さまを歓迎したかったのですが、教皇聖下から控えるようにと――」
「——スコット様……話の腰を折るようで申し訳ございませんが、英雄とはもしかして私たちのことを仰っているのですか?」
「その通りです。正確にはアデルさまたちではなく、アデルさまお一人を指した言葉ですが。ああ、それと」
一見したところは若干冷たい印象を与える目を細める。
「私のことは、"オフィーリア"でかまいませんよ」
アイリスがどのような根回しをしたのか非常に気になるところではあったが、今この場で聞くようなことではないと判断したアデルは、笑みを返すにとどめた。
「では参りましょう。教皇庁まで車で三十分というところです。荷物もこちらでお預かりいたします」
「ありがとうございます」
アデルたちは、それぞれが持つバッグやスーツケースを制服たちに手渡す。
男性陣よりも女性陣の荷物が多いのは仕方のないことだろう。
リーゼロッテの言い分は「これでも、着替えとちょっとした身の回りのものだけ準備したのよ」だ。
出口に向かって歩き始めた。
外は暖かな日差しが降り注いでいる。
オフィーリアは先頭を歩きながら口を開く。
「教皇庁に到着して直ぐ、教皇聖下と謁見していただきます。その後に教皇庁主催の晩餐会が催されますが、お召し物は今着ていらっしゃるもので大丈夫でしょう」
その言葉に一瞬、脚をもつれさせかけてしまい、慌ててガウェインは踏みとどまった。
歩みを止め、振り返ったオフィーリアの視線がガウェインに注がれる。
「し、失礼しましたっ!」
「いえ。それよりも何か気になることでもありましたか?」
「ええっと……ば、晩餐会があるんですか……?」
「ええ。教皇聖下はもちろん、全ての枢機卿猊下の皆さまが参加されることになっております」
恐る恐る問いかけるガウェインに、どこか弟を気遣う姉のような優しい視線を湛えながらオフィーリアは答えた。
「全ての、といいますと何人くらいでしょうか?」
今度はアデルが問いかける。
「七十人です」
「そんなに多くの方が参加されるんですね」
「七十人が多いか少ないか私には分かりません。ただ、枢機卿猊下は教皇聖下を直接補佐するだけでなく、教国全体に関わる日常的な職務を執り行っていらっしゃいます」
「そうでしたか。これは大変失礼いたしました」
アデルは折り目正しく頭を下げる。
「しかし、困ったことになりましたね」
顔を上げたアデルは、口に手を当てながら呟いた。
「今の情報だけでお分かりになりましたか」
「それはもう」
要は教国の中枢を担う重要人物が一堂に会することになるのだ。
お目当てはアデルたち――いや、恐らくはアデルだろう。
実際、周囲を警護している制服たちの視線も、アデルに向けられているものが多い。
これは、枢機卿たちの興味もアデルに向けられる可能性が高いことを意味する。
「パーティーでは結構忙しいことになると思います。他の皆さまはともかく、アデルさまは食事を摂られる暇もないかと。なんでしたら、軽い物でも摂っておきますか? ご用意いたします」
「気を遣ってくださり、ありがとうございます、オフィーリアさん。では、お言葉に甘えさせていただくことにします」
せっかくの厚意を辞退するのも無礼なことのように思えたアデルは、素直に頭を下げた後、黒塗りの車に乗り込んだ。
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