第96話 私とアデル編⑨

 私の元の世界での年齢が四十歳であったこと、この世界に転生することになった経緯、神様と名乗る少年の話、そして――私が恋愛に対して躊躇ちゅうちょする理由となった出来事。



 私が"彼女"――陽向朔ひなたさくと出会ったのは今から二十四年前のことでした。

 当時学生だった私は、同じ学校に通っていた朔と出逢い、そして恋に落ちたのです。

 誰に対しても、いつも輝くような笑顔を振りまいているのが印象的な、素敵な女性でした。


 同じ大学に進学して就職先も決まり、自ずと"結婚"の二文字を意識し始めた頃、彼女から唐突に脳の"悪性腫瘍"――ガンに侵されていると告げられたのです。

 しかも末期だと。


 その言葉を聞いた時の衝撃は今でも忘れることができません。

 同時に、これは本当に現実なのか、と思ったものです。

 今も目の前で気丈にも笑顔を見せる朔が、この世からいなくなってしまう。

 

 ――私に何ができるのか。

 そう考えた私がまずしたことは、彼女を抱きしめ「最後の日が来るその日まで、私の傍にいてください」と告げることでした。

 たとえ、別れが決まっているのだとしても、最後の日まで彼女の傍にいたいと、そう思ったからです。

 私も朔も泣いていましたが、最終的には笑みを浮かべて「はい」と言ってくれました。

 

 そこから先の一年間は本当に、全てが夢のように過ぎていったのを覚えています。

 休みの日には二人で旅行に行き、遊び、食べ、そして笑い合いました。

 行きたい場所はいくらでもありましたし、朔との時間もまだ沢山あるのだと、私は信じていました。

 

 しかし、四月になり冬から春の気配を感じ始めた頃。

 朔は倒れ、病院に緊急搬送されたのです。

 

 そんなはずはない。

 そんなはずがないではありませんか。

 朔はとても精力的に色々な活動をしていたし、脳の腫瘍もまだ通常の生活は送れるほどだと担当の医師も仰っていたはず。

 朔だってそんな素振りは――と思ったところで私は、彼女が一度も辛そうな顔を私に見せていないことに気がついたのです。


 彼女は私に癌と告げた日からも、辛そうな顔も苦しそうな顔も見せていません。

 私と少しでも長く一緒にいたいと、入院をすることも痛み止めの薬も飲むこともしませんでした。

 若かった私はそこで初めて気づいたのです。

 彼女を傍で支えようとしていた私の方こそが、彼女の存在によって支えられていたのだと。


 看護師に案内された私は、よろよろと数歩進み、白一色の部屋に入りました。

 部屋にはベッドの近くに機械類があるのみの簡素なものでした。

 力の入らない両足を懸命に動かして、私はベッドに近寄りました。

 部屋の入口からベッドまではほんの数メートルの距離なのに、途轍とてつもなく遠く感じました。

 夢から覚める現実へと至る距離を、一歩一歩踏みしめるように歩き、ベッドのかたわらに立ちました。

 ベッドに横たわる朔は、私の姿を認めると笑顔を見せたのです。


 その光景を見た瞬間、私は悟りました。

 全てはもう、取り返しのつかない段階に入っているのだと。

 朔に告げられたあの日から、いつか訪れると決まっていた"その時"がついにやってきたのだと。


 泣きそうになるのを必死でこらえながら、私もくしゃっと微笑みを返しました。


「――ありがとう、紳士くん。あなたのおかげで、私は最後まで満ち足りた人生を送ることができた……」


 こんな最後の時でも朔は、私に感謝の気持ちを伝えてきたのです。

 救われていたのは私のほうだと、何度も彼女の手を握り締めながら言いました。

 それでも朔は穏やかに微笑むと、ささやくように言ったのです。


「あなたがいたから私は今まで頑張ってこれたの。……だから、私の方こそ、ありがとう」


 朔はその後、私にあの言葉を残し、瞼をそっと閉じて、静かに眠るように息を引き取りました。



 こちらの世界では癌は存在しないようで、リーゼロッテが首を傾げていたので、治る可能性が低い病気とだけ説明しました。

 

 最上紳士もがみしんじであった頃の話を全て語り終えると、リーゼロッテの目は大粒の涙で溢れていました。

 

「何故、泣いていらっしゃるのですか?」


 胸ポケットにしまっているハンカチを取り出すと、リーゼロッテの顔に優しく押し当てました。


「……辛い話をさせてしまったわね」

「え……?」

「だって、貴方も泣いているじゃない」


 そう言われて初めて、私も涙を流していることに気づいたのです。

 思えば"彼女"のことを誰かに話したことなど、家族以外では一度もありませんでした。

 しっかりと思い返したのも久しぶりのことでしたし、感情が抑えきれなかったのかもしれません。


 リーゼロッテは私に近づくと、抱きしめて「私は急にいなくなったりしないから大丈夫よ」と言ったのです。

 そのようなつもりはなかったのですが、気を使わせてしまうとは……。


「申し訳ございません」

「なんでアデルが謝るのよ。私が貴方のことを教えてちょうだいと言ったのだから、貴方のせいじゃないわ。けど……ここまでだとは思わなかったわ。確かに手強いわね……」

「はい? どうかされましたか」

「ううん、何でもないのよ。こっちの話だから」


 リーゼロッテはニッコリと微笑みながら首を振りました。

 

「他にお聞きになりたいことはあるでしょうか?」


 私がそう言うと、リーゼロッテは少しの間、目を閉じて考えるような素振りをしていたのですが、先程のように首を振りました。


「今のところはないわ。聞きたいことができたらまた聞くかもしれないけれど」

「構いませんよ。いつでも仰ってください」


 私としても前世のことを話せるのは、よい息抜きにもなりますし。


「ありがとう。ああ、そういえば」


 一旦言葉を切ったリーゼロッテは、何かを思い出したようにポンと手を叩くと、覗き込むような視線を向けてきました。


「アデルは今度の冬休みは公爵家に帰るのよね?」

「ええ、マリーとも約束しましたからね」


 確か、マリーのお友達を屋敷に招いて私を紹介するのだと言っていたような気がします。

 アデルは理由もあり、学園に入学するまでは友人と呼べる人間はいなかったようですが、貴族――それも位の高い家ほど貴族同士の繋がりは大事なようで、その子ども達が友人になるのが普通のようです。


 ミシェルもお友達を紹介したいと言っていましたからね。

 兄としては二人の期待に応えるのは当然でしょう。

 マリーにはこの前の公演で作ってもらった人形のことについても、言っておかねばならないことがありますし。


「なら良かったわ」

「良かった? どういうことでしょうか」


 問いかけると、リーゼロッテは腕組みをして私にこう言ったのです。


「エステルの誕生日がもう直ぐなのよ。お城で誕生パーティーを開くのだけど、アデル。貴方も来なさい。もちろんミシェルやマリーも連れてきていいから」


 エステル――学園対抗戦終了後の後夜祭でお会いした、リーゼロッテの妹でしたね。

 誕生日ということであれば、出席しないわけにはまいりません。

 

「承知しました。エステル様の喜ぶ品を持って伺いましょう」

「そう、良かったわ。ヴァインベルガー家に手紙を送っておくから宜しくね」

「はい」


 とは言ったものの、ここは年齢の近いマリーの意見を聞くのが良さそうです。

 見当はずれのものをエステルに渡して、悲しませてはいけませんし。

 こちらに来て初めての冬休みは、イベントが多そうで楽しみです。


 ――それから一週間後、冬休みに入った私たちは、聖ケテル学園を後にするのでした。




 【私とアデル編】 (完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る