第95話 私とアデル編⑧

 ふとかすかな気配を感じながらゆっくりと目を開けました。

 視界が悪いのか、よく見えません。

 不意に双眸そうぼうから熱く溢れるものがありました。

 そこで初めて涙を流していることに気づいたのです。

 激しく、深い喪失の余韻だけは胸の奥に切ない痛みとなって残っていました。

 この涙はアデルが流したものか、それとも――。

 

 ――ありがとう、最上紳士……君に出逢えて、良かった。

 

 内側からずっと彼の――アデルのことを見ていたが、薄れゆく意識の中で最後に聞いた声は、とても穏やかなものでした。

 最後の最後に感謝の言葉とは、しかもそれが私に対してのものだというのですから。

 ええ、ちゃんと伝わりましたよ。


 目蓋まぶたを閉じると、優しげな彼の声が聞こえてくるようです。

 私という存在、アデルという存在を形作っていた境界が消滅し、二人の魂が溶け合い、一つになったのだという感覚が身体中を駆け巡っていました。


 アデルと話すことは、もうできません。

 ですが、彼は私の中で生きている――私と共に生きている。

 今まではただ、アデルの記憶が残っているという感覚しかありませんでしたが、今は違います。

 私は最上紳士であると同時に、アデル・フォン・ヴァインベルガーなのだと強く感じるのです。


「アデル……?」


 声のする方に目を向けると、涙を伝うほほを抑えようともせずにこちらを見つめるリーゼロッテと目が合いました。

 ゆっくりと右手を上げると、リーゼロッテの瞳からとめどなく流れ落ちていく涙を指で優しくぬぐいます。


「アデルさんのために泣いてくださって有難うございます」

アデルさん・・・・・? ということは、やっぱり……」

「ええ。信じられないかもしれませんが、先程までのアデルさんと今の私は別人です――いえ、今はある意味同一人物と言えるかもしれませんね」


 リーゼロッテは涙で腫れた目を大きく見開きました。

 私は上体を起こし、次いでリーゼロッテに向かってひざまずきます。

 二つの魂が完全に一つになった影響か、リーゼロッテを見つめると、何故か涙があふれそうになりました。

 私は必死にこらえ、どうにか笑みを浮かべると、ささやくような声で言いました。


「少々長い話になってしまいますが、聞いていただけますか?」

「……ええ」

「有難うございます」


 一度だけ大きく深呼吸をしてから、口を開きました。


「リーゼロッテ様が先程まで話をしていらした人物こそ、貴女が幼少の頃より知っていらしたアデルさんなのです」

「……じゃあ、あの……今、私の目の前にいる貴方は……?」

「……私の本当の名前は、最上紳士と申します。本当の名前、といっても元の世界での名前ですが……」

「モガミシンジ? それに元の世界って……?」


 リーゼロッテが目をまばたいています。

 

「はい。私はこの世界とは異なる世界に住んでおりました。ある日、女の子を助けた代わりに死んでしまったのですが、神様を名乗る方にアデルさんの身体に転生しないかと持ちかけられたのです。彼が死ぬ寸前だからと……心当たりはありませんか?」


 私の問いかけに、リーゼロッテはハッとしたような表情をしました。

 私が転生した初日――ヴァインベルガー家に見舞いに来た時のことを思い出しているのでしょう。

 

「リーゼロッテ様がヴァインベルガー家へ来られたあの日。今にも死にそうだという話は嘘ではなかったのです。事実、貴方も仰っていたではありませんか。本当に貴方はあのアデルなの? と」

「……確かに言ったわ。だって、口調も作法も雰囲気だってまるで別人のように――って、じゃあ……あの時から……」


 リーゼロッテの唇が震えているのが分かりました。

 

「……はい。あの日を境に、私はアデル・フォン・ヴァインベルガーとしてこの世界で生きていくことを決意したのです。その後の私がどうだったかは……リーゼロッテ様もご存知かと思います」


 何故なら、学園生活において彼女が一番私の身近にいて、一番私を見てきたのですから。

 

「ええ……」


 リーゼロッテは短く言葉を挟みながら、ゆっくりと頷きました。

 

「今まで黙っていて申し訳ございません。……本当は、誰にも言うつもりはありませんでした。だって、そうでしょう? いきなり別の世界から転生してきましたなどと言ったところで、誰も信じるはずがありません」


 私は一旦言葉を切りました。

 そう、ずっと秘密にして生きていくつもりでした。

 彼と出逢い、彼と話をするまでは。

 

「ですが、死んでしまったと思っていたアデルが私の中で生きていることを知り、彼と話をした時に思ったのです。このままにはしておけない。最後にリーゼロッテ様――貴女への想いを伝えさせてあげたい、と」

「最後……」

「ええ。死にかけていたアデルさんは、私の魂と結びついたことでかろうじて存在を許されていたのだそうです。ただ、完全に結びついてしまうと、私とアデルさんの魂は一つになり、そして……」


 胸にこみ上げてくる感情を抑えることができず、そこから先は言葉にできませんでした。

 リーゼロッテも何となく察したのでしょう。

 瞳が潤んでいます。


「信じていただけませんか?」

「普通なら信じなかったでしょうね。……でも、さっきの彼を見ちゃったらね……信じるしか、ないじゃない」

「有難うございます。……アデルさんの想いは伝わりましたか?」

「……ええ。ちゃんと伝わったわ。私の中に今も残っているもの」


 リーゼロッテは両手を自分の胸に当て、目を瞑りました。

 良かった。

 貴方の想いは届きましたよ。

 アデルに語りかけるように、リーゼロッテと同じように胸に手を当てました。

 

「――ええと、これから貴方のことをなんて呼べばいいのかしら」

「呼び方、ですか。さきほども言いましたが、私はこの世界に転生したその日から、アデルとして生きていくのだと決意しております。リーゼロッテ様さえご迷惑でなければ、これまでどおりアデルと呼んでいただけませんか?」


 この姿で最上紳士と呼ばれても違和感しかありませんしね。

 ゆっくりと立ち上がり、リーゼロッテに向かって微笑むと、少しだけ考えるような素振りを見せた後に彼女は頷きました。


「分かったわ。……何だか不思議な気持ち。目の前にいる貴方はアデルだけど、さっきまでのアデルとは違う、のよね?」

「はい」

「だけど、私が好きなのは今のアデルで……。ああ、手強いって、そういうことなのね」


 片手を口に当ててクスクスと笑うリーゼロッテ。


 正直申し上げて自覚はあります。

 アデルと一つになったことで、リーゼロッテを愛おしいと感じるようになりました。

 このまま感情に流され、彼女を抱きしめて「愛しています」とささやきたいと思う私がいる反面、心の奥深くに固まり続ける"彼女"の想いを断ち切れない私もいるのです。

 心に変化はあれども、やはりまだ私は……。


「申し訳ございません。ですが、その……」

「何かしら?」

「気にならないのですか? 身体はアデルとはいえ、私は違う世界からやってきたのですよ」

「そうねぇ、じゃあ貴方のことをもっと教えてちょうだい」


 私は驚いてリーゼロッテの顔を見つめました。

 彼女は私に視線を送るとかすかに微笑んで、言葉を続けました。


「私はね、これまで貴方を見てきた私自身を信じているわ。私が好きになったんだもの。少なくともこの想いは本物だって。なら、私が気になるのはただ一つ、貴方のことがもっと知りたいしかないわ」


 もっと疑問を持たれるものと思っていました。

 最悪、ずっと黙っていたことに対して罵声を浴びせられるのも覚悟していたのですが――これは、まいりましたね。

 リーゼロッテなら、もしかしたら……。


「承知しました」


 頷いた私は、リーゼロッテの質問に答えていくのでした。

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