第41話 幕間「アデルの夏休み 前編」
チャイムの音と共に、私は演習場の端に置いていたタオルを手に取り、顔から流れ落ちる汗を拭います。
外に目を向けると、ギラギラと陽光が地面を照りつけていました。
時間が経つのは早い――いえ、とてつもなく短いですね。
若い頃の一日というものは、もう少し長く感じたような気がするのですが、それだけ毎日が充実していたということでしょう。
新人戦が終わり、決意を新たにしてから早三ヶ月。
八月になり、私は十五歳になりました。
地球の季節で言えば夏。
地球の夏ほど暑いとは思いませんが、ここは山の上ということもありますし、街中まで出ればもう少し暑いと感じるかもしれません。
この三ヶ月は午前中は講義、午後は手合わせや訓練、休日は主に演習場を利用した自己鍛錬や、リーゼロッテやガウェイン達との手合わせといった毎日でした。
そこまでして劇的に強くなったのかと問われると、答えは"
ファンタジーの世界では、
勿論、魔力を使い切ったら総量が増えるなんていうこともありません。
ですが、手合わせや訓練をすることで戦闘の経験を積むことができますし、自己鍛錬をすることで、己の肉体強化を行うことができます。
要は相手の動きを見極めて、自分がどのように動けば良いかという判断力を身につけたり、実際に行動する際に思い通りに動ける身体を作りあげるといったところでしょうか。
肉体の限界に挑み、自己の研鑽に励む行いは必ず結果がついてきます。
そういった意味では少しずつ強くなっているという実感はありました。
――後一ヶ月で
あっという間にやってくるのでしょうね。
明日も頑張りますか、と思っていたところ――。
「師匠ー、ちょっといいですかー?」
「いいですよ、なんでしょう、ガウェイン君」
演習場を出ようとしていたところに、後ろから声を掛けられ振り返ると、ガウェインがニコニコしながら駆け寄ってきました。
「いえ、少しお伺いしたいのですが、師匠は来週の予定は考えていますか?」
「来週、ですか?」
「ええ、来週です」
はて、来週は何かありましたかね?
特に何もなかったような気がしますが……。
「いつも通りに過ごすつもりですが、何かありましたか?」
私がそう答えると、ガウェインは驚いたような表情を浮かべ肩を落としました。
んん? そんなに驚くことですか?
「師匠……。来週から帰省が許される夏休みの期間に入るんですよ! もしかして……忘れてましたか?」
言われて私はポンと手を叩きました。
入学した際の説明で確かに言っていましたね。
十日ほど、だったでしょうか。
すっかり忘れていました。
というか、この世界でも夏休みというのですね、むしろそちらにびっくりです。
「ああ、そういえばそんなものがありましたね」
「忘れてたんですね……師匠らしいと言えば師匠らしいですけど」
ガウェインは苦笑していますが、今の生活があまりにも充実していましたから、忘れていても無理はないと思うのです。
何よりも私は――。
「まあ、この夏は帰省するつもりはありませんから、夏休みだろうと変わりませんが」
「ええ!? 戻らないんですか?」
「ええ、冬の時は帰ろうと思っていますが、夏は帰りませんよ。おかしいですか?」
「久しぶりに家に戻れるのですよ? 家族に会いたいとは思わないんですか?」
ふむ。
久しぶりに公爵家に戻り、皆に会いたい気持ちは当然あります。
可愛いミシェルにマリー。
二人とも元気に過ごしているでしょうか。
風邪など引いていなければ良いのですが……。
出発前の愛らしい二人の顔が頭を過ぎります。
お父様やお母様、ルートヴィッヒに使用人達。
頭に浮かんでは消える公爵家の人々の顔。
一瞬、帰ろうかとも思いましたが、今戻ってもミシェルやマリー、ルートヴィッヒ達はともかく、お父様やお母様はあまり歓迎してくれないでしょう。
異能を発現出来るようになった今なら二人の反応も多少違うかもしれませんが、どうせならもう一つ手土産が欲しいところです。
手土産とは当然"五騎士"の称号。
確かお父様も若かりし頃に"五騎士"に選ばれたことがある、とルートヴィッヒから聞きました。
私が"五騎士"に選ばれて帰省した時に、二人がどういった反応を見せるのか。
その為にも今回は戻るわけにはいきません。
ただ、ガウェインにハッキリと告げる訳にもいきませんからね。
申し訳ないですが、少しぼかした言い方をしますか。
「少々込み入った事情がありまして。家族に関わることですので、聞かないで頂けると助かります」
少しだけ困ったような笑みを浮かべながら答えると、ガウェインは「しまった」というような、何とも情けない顔をしました。
「そ、そうですか。それなら仕方ないですね……。くっ! 弟子として察することが出来ず、申し訳ありません!」
「いえいえ、気にしなくても良いのですよ。ガウェイン君達のおかげで学園生活も楽しいですからね」
こういう時は直ぐにフォローを入れるに限ります。
私は極力柔らかな笑みを浮かべてガウェインにそう告げると、ガウェインは目を大きく見開きました。
「あ、有難いお言葉! このガウェイン・ボードウィル、今の言葉をしかと心に刻んでおきます!」
何とも大袈裟な反応ですね。
私は喜ぶガウェインに苦笑しつつ頷きます。
「ところで、ご用件はそれだけですか?」
ハッと我に返ったガウェインが、直ぐに大きな声を上げます。
「あ! そうでした! 夏休みに帰省しないと言うのであれば、夏休み中の一日を使って外へ遊びに行きませんか?」
「遊びに、ですか……」
ふむ。
山の上にある全寮制ということもあり、入学してからずっと学園で講義と手合わせを繰り返してきました。
"五騎士"を目指すのであれば、休みなど取らずにずっと鍛錬を続けていた方が良いのでしょうが――。
不安そうな眼差しでこちらを見つめてくるガウェイン。
彼の内面は分かりませんが、断られたらどうしよう、といったところでしょうか。
ガウェインには、なんだかんだで色々とお世話になっていますからね。
フッと笑みを浮かべて一つ頷きます。
「たまには息抜きも必要ですし、いいですよ。行きましょうか」
「ほ、本当ですかっ」
曇っていた顔がパアっと明るくなり、嬉しそうな顔を見せるガウェインに私も嬉しくなります。
「ええ。ちなみにですが、どちらへ遊びに行かれるつもりですか?」
「海です!」
「海?」
海は久しぶりですね。
就職してからは忙しくて一度も行っていませんでしたから、約二十年振りですか。
紳士の時はそれなりに泳げましたが、アデルとなった今はどうでしょうかね。
地球の海と大差無ければよいのですが、楽しみです。
「行くのは私たちだけですか?」
「ええと、それなんですが……」
ガウェインが視線を別方向に向けたので辿ると、視線の先にいたのは――。
「私たちも一緒に行ってもいいかな、アデル君」
「おや、エミリアさんに……リーゼロッテ様も、ですか?」
「……何? 私が一緒に行ったらダメなのかしら?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
「なら決まりね」
仮にもこの国の第一王女が海とはいえ、公衆の面前で肌を晒すというのは如何なものでしょうか。
この言葉が出そうになったのですが、リーゼロッテの有無を言わさぬ眼力に気圧された私は、喉の奥に飲み込みました。
海にどの程度の人が来るのか分かりませんが、何か起きる前にお守りすれば良いでしょう。
「それなら海までの足が必要だろう。当てはあるのかな?」
「シュヴァルツ先輩」
どこからともなくやってきたのはシュヴァルツ。
一体いつの間に。
シュヴァルツの問いに、ガウェインが口を開きます。
「バスを利用して行こうと思っています」
「それはいけない。リーゼロッテさんは学生とはいえ、この国の第一王女だからね。本来であれば海に行くのも止めたいところではあるんだが――」
「私は絶対に行きます、何があろうとも」
何故かは分かりませんが、恐ろしいまでに真剣な表情でハッキリと言い切るリーゼロッテ。
何がそこまで彼女を駆り立てるのでしょう?
「フフ、分かっているよ。そこでだ。俺が君たちを海まで連れて行ってあげよう」
「シュヴァルツ先輩が?」
思わず聞き返した私に、シュヴァルツが頷きました。
「これでも免許は既に取得済みなんだ。学園で管理している十人乗りの電磁車が一台あるので、それで行くとしよう」
何と! シュヴァルツが運転して海まで連れて行ってくれるというのですか。
三人もビックリしたようで、驚いた顔をしています。
こちらとしては有難いですが、これだけは聞いておかねばなりません。
「あの、大変嬉しい申し出ですが宜しいのですか? せっかくの夏休みです。シュヴァルツ先輩も何か用事がおありなのでは?」
「なに、四年ともなると特にないから気にすることはないさ。それに保護者の役割も兼ねているのでね。まあ、アデル君がいれば問題ないとは思うが」
「そこまで考えておいでとは。お心遣い有難うございます」
中身はともかく外見はまだ十五歳。
第一王女であるリーゼロッテがいることを考えれば、もしもの時に即座に対応できる人がいるのは心強いです。
シュヴァルツに礼を述べて一礼すると、慌てたように三人も礼を述べました。
「……本音を言うとね。確かにリーゼロッテさんの事も心配ではあるんだが、アデル君。君の事も心配しているんだよ」
「私も、ですか……?」
はて? リーゼロッテはともかく私は心配されることなど無いと思うのですが。
シュヴァルツの言ったことが理解できずに首を傾げていると、他の三人は分かっていると言わんばかりにウンウンと頷いています。
それを見て苦笑するシュヴァルツ。
「三人は良く分かっているようだ。アデル君が海にいる全ての女性を魅了しないよう、監視しておいてほしい」
「「「はいっ!」」」
元気よく返事をするリーゼロッテ達三人ですが……私が魅了する?
海にいる全ての女性を?
そんな事をするつもりは全くありませんし、私に魅了されるような方がいるとも思えません。
「甘いぞ、アデル君」
まるで私の考えている事が分かっている、と言わんばかりのタイミングで声をかけてくるシュヴァルツ。
「甘いとは?」
「アレを見たまえ」
「アレ?」
シュヴァルツが指差す先には、"アデル親衛隊"の女子生徒達の姿が見えます。
そういえば、放課後の時に良く見学に来られるようになりましたね。
遠目からこちらを見ていたり、応援をして下さるだけで接触などはありませんが。
ん? 何やら一人の女子生徒が異能を発現し始めたようです。
「『――
彼女が異能を発現させると、左腕についている"アデル親衛隊"の腕章が光り始めました。
「んん、こちら"アデル親衛隊"二十番、フェリシアです。全員聞こえますか? どうぞ」
『聞こえます、どうぞ』
『同じく聞こえます、どうぞ』
次から次へと返事が返ってきていますが、もしやあの腕章が通信機になっている?
「私達のアデル様が来週……海へ行かれるそうです、どうぞ」
『……海、ですか? どうぞ』
「海です、どうぞ」
『…………キャアアアッ!』
耳を
少なくとも数十人規模であろう叫び声は凄まじく、思わず手で耳を塞いでしまったほどです。
『どんな手を使ってでも行かなくちゃ』
『アデル様の裸体……あ、鼻血が』
『写真に収めて等身大パネルにしなくちゃ』
その後も次々と聞こえる妄想じみた言葉。
水着姿ですから、いつもよりは肌を露出することになりますけど、決して裸になるわけではないのですが……。
ポン、と肩に手を置かれたので振り返ると、シュヴァルツが苦笑していました。
「分かったかな? 既にアデル君はあれだけの数の女子生徒を魅了しているんだ。周囲から何度も言われていると思うが、君が理解できなくともそういうものだという自覚はしておきなさい」
腑に落ちませんが、目の前で起こっている事実を見せつけられては仕方ありません。
頷くと、シュヴァルツは満足気な笑みを浮かべると、伝令役の女子生徒、フェリシアへ近づきました。
フェリシアも興奮しているのか、シュヴァルツに気づいている様子はありません。
「フェリシアさん、だったかな。その異能は継続中だね」
「……へ? ハッ! シュヴァルツ先輩!?」
ようやく気がついたフェリシアが驚きの声を上げて後退りそうになりますが、シュヴァルツは逃さず腕章に向かって話し掛けます。
「ちょっと失礼するよ。"五騎士"筆頭であるシュヴァルツ・ラインハルトが、"アデル親衛隊"に所属する全ての生徒に命ずる。君達が海へ行く事を禁止する。どうしても行きたいのであれば、俺の許可を取ること。以上だ」
「そ、そんなあああああああ」
崩れ落ちるフェリシアと同時に、腕章越しからも落胆したような声が次々と上がったのでした。
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