第363話:黒衣の少女ー17
窓の板戸の隙間から、朝日の羽根が舞い落ちる。木の感触を直に感じるベッドから起きて、まずその戸を開けた。
大地から飛び立ったばかりの太陽が、柔らかくも眩しい
昨日の懸念を残すことなく、今日の不安に備えなくて良い毎日。そんなものが自分に訪れるとは、人生何が起こるか分からない。
落ち着きすぎて、落ち着かないわね。
そんな感覚に陥りながら、フラウはしばらく空と街とを眺めた。
「姉さま」
小さなノックの音と、フラウを呼ぶ声がする。アビスの妹と紹介された、コラットだ。
「待って」
それほど広くもない部屋を横断して、掛け金を外す。扉を内に開くと、木製のワゴンを押した少女が部屋に入ってくる。
「毎朝こんなこと。手間でしょう?」
「いいえ。手間でないとは言いませんけど、私が姉さまにして差し上げたいの」
ワゴンは窓際のテーブルのところまで運ばれた。そこでフラウが椅子に座ると、コラットはワゴンの下段から薬缶を出す。
それから部屋に置いてあるたらいに残った水を窓から捨てて、そこに薬缶のお湯を注いだ。
「どうぞ、姉さま」
「ありがとう」
差し出された手拭いは綺麗に洗濯がしてあって、湯をつけて顔を拭いても肌に優しい。新品の手拭いだと、こうはいかない。
「あなたには、何だかこんなことばかりしてもらっている気がするわ」
「うふふ」
アビスから紹介してもらった時、コラットという可愛らしい少女に見覚えがあった。名は覚えがない。記憶の混乱しているフラウだから、当てにはならないが。
ミーティアキトノのアジトに寝床をもらって、初めて迎えた朝にそれは分かった。
その日もコラットはメイド服を着て、扉の向こうに薬缶を抱えて立っていた。
それで記憶が少し繋がった。「あなたはあの時の──」と言ったものの、どの時だかは分からない。
しかしカテワルトの街中にある宿屋で見た、あのメイドであると分かった。
「あなたが監視役だったとはね。気が付かなかったわ」
「監視だなんて。私は姉さまを見守っていたんです」
「まあ」
どちらも間違いではないのだろう。フラウの素性に疑問を覚えた団長が、コラットを潜り込ませたのだ。
「でも私だけこんなことをしてもらっていて、いいのかしら。仮にも盗賊の仲間になったのに」
「いいのではないですか。高貴なる盗賊っていうのも格好いいです」
洗顔の道具は片付けられて、目覚めのお茶の用意がされていた。トレイに被せられていた蓋の下には、甘みの少ない焼き菓子もある。
こんなことをしてもらっては、貴族の生活が続いているかのようだ。
それにこの部屋だって、フラウが専用に使っていいと言われている。どこから持ってきたのか、値の張りそうな鏡台やタンスなども揃えられた。
「それに……」
「それに?」
はきはきと喋るコラットが、珍しく口淀んだ。意を決して何か言いかけたけれど、挫けたらしい。
「大丈夫。姉さまなんて呼んでくれる、可愛い女の子が言うことだもの。何だって聞き届けるわ」
「ふふっ。姉さま、団長みたい」
「そう? ──悪影響が出ているかもしれないわね」
最初から憧れで入団したアビスと違って、フラウには団長の正体の知れなさが不気味だった。
単純な身体能力から始まって、戦闘も一流以上。治癒の奇跡を起こすことが出来れば、情報の扱いもこなす。
そんな多種多様な能力に恵まれた人間は、貴族にも軍人にも居ない。ハンブルとキトルの種族差以前の問題だ。
しかし少なくとも、フラウを救おうとするアビスに全面的な協力をしたのは事実だ。
もちろんそれもフラウが目にしたわけではないが、アビスからそう聞いている。
フラウに取って、アビスを疑うことはあり得ない。アビスを疑う時は、自身の終わりだ。
「あの──笑わないで欲しいのだけど」
「笑わないわ」
「姉さまが兄さまを好きになってくれたのは、とても嬉しいの。本当よ。
でも私も兄さまが居なかったら、ここでこんな風には生活出来ていなくて──」
コラットもアビスと同じく、ハンブルとキトルとの
ただ長いスカートに隠れた脚が、キトルのそれになっている。
血脈の問題は、当事者でなければ想像もつかない。部外者からすれば、どうしてそんなことでということが問題になったりもする。
コラットの生まれた家も、そうだったらしい。
アレクサンドの家で使用人であったのをアビスが連れ出したそうだが、その辺りのことはまた追々とのことだった。
出来ればコラットが自分で語るまで、聞かないでやってほしいと。
詳しい事情は分からずともそんな背景があるのであれば、どれだけ慕い慕われているのか想像するくらいは出来る。
フラウの経験にそういったものはなかったが、類推するくらいには。
「分かったわ。ええと、そうね──もしもアビスが独立するなんてことがあっても。必ず二人で着いていきましょう?
ずっと三人で、同じところに住むの」
きっとそういうことだろうと予測して答える。そんな先のことまで考えてはいなかったが、口にしてみても悪くない。
きっとアビスだって、それがいいと言うに決まっている。そう思えた。
「本当⁉」
目を見開いて、コラットは喜びを顔中に示す。驚きを半分ほども混ぜているので、よりそれは顕著だ。
しかし思慮深いメイドとしての自分を思い出したのか、表情に意図的な操作が加わる。
何度かの軽い咳払いを挟み、取り繕った表情が残った。
「姉さま、ありがとう」
「お礼なんて」
「いいえ。今の話だけではなくて、兄さまを解放してくれて。兄さまを人間らしい道に立たせてくれて。そんなこと全部にお礼を言いたいの」
人間らしい道。それがどんなものか、フラウにも明確なイメージはない。けれども共に歩くのだとは分かる。
同じ道筋ではあっても、彼と自分とでは足跡が違う。重ねあったとしても、形が違うのだから同一にはならない。
歩幅も違うし──でもきっと、いつか似通っていくのね。
フラウの心には、そんな未来が予言出来た。
「そうね。アビスもずっと、立ち止まっていたのよね」
「ええ、今は違う。今は走っているの。ゆっくりとだけど、少しずつ速度も上がっているの」
思いがけず互いの気持ちを擦り合せていると、また扉にノックが響いた。
「フラウ、起きてる? 朝食を食べに行こうよ。良ければコラットも誘いたいんだ」
ずっと仲良く育ってきた姉妹のように、二人は顔を見合わせた。フラウが意味ありげに眉を動かすと、コラットは口を手で押さえて笑いを殺す。
「可愛い妹を後回しにした理由を、聞きに行きましょうか」
「ええ、姉さま。その答えには、どうして姉さまを先にしないのかって私が聞くわ」
二人は連れ立って扉を開けて、哀れなアビスを部屋に引き入れた。
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