第357話:侵入

 広い廊下。使用人は多く居ても、だらだらとその辺りを彷徨いていたりはしない。特にこの四階ともなれば、用事もなく歩く人は皆無だろう。


 硬い石の床面は、輝くほどに磨き上げられている。ハンブルであればどんなに気を付けて歩いても、音をさせないことは難しい。


「──あの部屋です」


 息を潜めて、すぐ周りにだけ聞こえる声で言った。最後にあの部屋へ入ったのは、どれくらい前だっただろう。


 ボクの一歩前を歩くのは二人。隣には一人。

 前の二人はキトルで、ボクの緊張感をよそに呑気な顔をしている。廊下のあちこちに飾られている美術品なんかを、値踏みしてもいるようだ。


「こうなったなら、次はここに来てもいいんじゃないかみゃ」

「おいしい物もいっぱいありそうみゅ──もぐもぐ」


 しがらみがあって、ここへ盗みに入ったことはない。でもそれも今日で終わるのだろうか。

 とりあえず最初の獲物は、香りをさせるために置いてある果物になったようだ。


「何だか胸が高鳴って、緊張感が堪らないわね。何だか悪いことをしているみたい」

「え──うん。そうだね」


 しらばっくれての発言ではないようだ。ボクはともかく彼女に取っては他人の邸宅で、勝手に侵入しているのを忘れたのでもないと思うが。


 最近の彼女がいつもそうであるように、明るい方向にも暗い方向にも気持ちは見えない。

 しかし好奇心みたいなものはあるのだろう。今までやってきたこととは異なる行為に、何らかの感情は動いているらしい。


 彼女の足には特別性の靴がある。どちらかというと靴下に近いそれは、氷に閉ざされた島に棲むという生き物の革製だ。

 長く弾力の強い体毛は、彼女の足音を消すのに十分な効果を発揮した。


 おかげでここまで誰に見咎められることもなく、どうにか目的の部屋に辿り着いた。

 見張りは居ない。

 たぶんそれは、この中に居るはずの人物がいま何を考えているのかの証左なのだと思う。


「開けるみゃ」


 三人の顔を見回して、頷く。誰も気構えた表情ではない。それはたぶんボクも。


 ノブに手をかけて、捻る。

 金属部品の動作する機械的な音が、耳に心地いい。この建物の中で、こんな気持ちになる日が来るとは思っていなかった。


 扉が少し開いたところで、残りは派手に蹴り開けられる。ボクとボクの隣に居る女性は、その中央を堂々と歩いた。


「何者だっ!」


 入り口に近いほうに居た数人の男は、佩いていた短剣に手をかける。しかしその動作よりも早く、その喉には鋭い爪が突きつけられた。


「おとなしくしていれば何もしないみゃ。それを抜いたら、死にたいんだと判断するみゃ」


 そんなことを言われたからと、本当におとなしくなる人は護衛に向いていない。

 でも、ただ剣を抜こうとしたのと、入り口からの距離を駆け寄るのと。その速度で負けた事実に気付かない人も、また同じくだ。


 解放されると、取り敢えず包囲することでお茶を濁すらしい。ボクたちが進むと、そのままの距離感で一緒に動いた。


 奥の部屋に続く扉は、開けたままになっている。だからこの建物の主から、ボクたちの行動は丸見えだ。

 それでもその人は、執務用のテーブルから離れようとはしない。すぐ目の前に立って、ようやくその手を止めたほどに動じていなかった。


「おやおや、ようこそお出でくださいましたにい」

「勝手にお邪魔しました、アレクサンド夫人。やはりボクたちが侵入したことは、ご存知だったようですね」


 夫人は薄く笑うだけで、明確な返事をしなかった。でもそれはどっちだっていい。話したいのは、そんなことじゃない。


「フラウさん──でしたかにい? 生きていたのですにい。あなたに取って良かったのかは図りかねますけれど、死んでいるよりはいいのでしょうにい」

「おかげさまで」


 この国の正式な礼に従って、フラウは両手を軽く広げて腰を折る。

 方便ではあっても貴族を名乗っていた彼女の、厳しく教えこまれた貴族以上の倣いだった。


「それで今日はどのような趣向ですにい? まさか子爵のところへ、連れて行けと言いに来たのではないですにい?」


 夫人は優雅に座り直しながら、手を払った。護衛としては役に立たない男たちを、下がらせるために。

 これで見た目には一人と四人になったけれど、恐らくどこかに操り人形マルネラが隠れている。


「アレクサンド夫人」

「何ですにい?」


 この人が何をどう考えるのか、価値観とか思考の経路はまるで分からない。理解出来ない。

 でもボクに対して敬意を払ったり、反対に見くびったりなどとは感じていない。ボクへの気構えなど、この人は一つたりとも持ち合わせていない。


「……今日は。今、この時だけ。初めて、最後に、こう呼ばせていただきます」


 勢いに任せてひと息に言うつもりだったのに、唾が溜まってしまった。

 慌てて飲み込んで、もう一度心を落ち着けて言う。


「母上。今日はあなたに、言いたいことがあって参りました」

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