第352話:親方の洞察
「自分の奥さんは処女でないと嫌だとか、それこそ貴族の話じゃないですか。わざわざ穿り返すようなことは言いません」
「なるほどな、そりゃあそうだ」
果実酒のカップが、ぐいと傾けられた。それはすぐさま注ぎ足されて、また喉に流し込まれる。
酔っ払って絡んできているだけならば、まだ良かった。だとしたら、ボクがなかったことにすればそれまでだ。
でも親方の目にも顔にも、そんな気配はない。
そもそもここでどんな言質を取ったところで、からかうネタにはならないのだ。こういう話は、相手となる女性に伝えるか伝えないか、或いは伝えた上で冷やかすか。
そういう風に楽しむものだろう。
「じゃあ辺境伯はどうなんだ」
「へんき──リマデス卿ですか。あの人だって、同じことです」
「同じ? 長いこと利用されてたんだろう。互いの体の隅々まで知っているだろうし、出会っていなければそういう過去にもなっていない」
また──。
どうしてボクを怒らせようとするんだ。それはあの人とフラウの問題で、ボクは見守るしかないことなんだ。
今更そこに腹を立てたところで、なかったことになんて出来はしない。
「さっき言った通りです。あの人に共感してしまったから、優しい人だと知ってしまったから、咎めることなんて出来ません」
「優しい?」
疑問の形ではあっても、答えは必要ないようだ。すぐに「ふうん」と自分で言葉を重ね、ボクの喋る機会を消した。
ただそのあと、「分かっている、分かっている」という感じで小さく首肯するのが妙に厭らしい。
「もう一つ質問だがな。さっきの昔話、どうして話した」
「……あれはボクの話で、どうすればいいか分からなくて」
「どうすれば? 何を」
何を。
何を?
何をだろう。ボクは何を聞きたくて、あの話をしたんだろう。
フラウを埋葬しろと言われて、そうするべきだと思って、でもそのあとのことが全くイメージ出来なくて……。
「何を聞きたいのか。それさえも聞きたいんだと思います。仲間から逃げ出して、フラウも失って、どこへ向かえばいいのか見当がつかなくて」
「だから自分の状態を全部開けっぴろげにして、必要なところを拾ってくれってことか」
傾けたカップで、親方の顔は見えない。けれどもそれで良かった。フラウのことでずっと呆然としていたのは確かだけれど、あまりに人頼みの甘えた話だと思った。
人に言われるままの、ボクの気持ちなんてないものとして扱われていた、あの日々。
忌み嫌っていたはずなのに、自分からそこへ戻ろうとしていた。
「ん? どうした、そんなに恥ずかしがることはねえよ。惚れた女が死んだとなったら、多少なりと誰でもそうなるもんだ」
顔を俯けたボクに気付いて、親方は言った。それでも顔を上げられずにいると、一声「はっ」と笑う。
「すまねえな、ちょいと意地悪が過ぎたらしいや。お前さんが助言を求めてるのには気付いてて、わざと聞いたんだ」
「──わざと?」
「本心がどの辺りにあるのか、俺もだがお前さんが知ってなきゃあ何も言えねえからな」
ボクが自己嫌悪に陥るところまで含めて、筋書き通りということか。それは本当に意地が悪い。
しかし同時に、易易と予想されるほどに幼稚な考えということだ。
「だから悪かった。俺の思うところなんぞでいいなら、話してやるから。機嫌を直せ」
「いえ、あなたに怒っているわけじゃないです」
そうか。と親方は苦笑いを浮かべて、また酒を飲んだ。今度は親方のほうが、場をごまかしたいようだ。
もう何杯目だったか、毎回カップから溢れるぎりぎりまでを注いでいて、今回もそうだった。
ぷはあと息を吐いた親方は、空になったカップを脇に置いてボクを見つめる。
「お前さん、生きるのがつらくねえか」
またも質問だったけれど、親方の目が優しい。無骨な戦士の体で、顔もいかにもという風ではある。
だから優しいと言ったところで、さっきまでとどこが違うのか区別は難しい。強いて言えば、険がないというところか。
「あ、ええと──」
「責めてるんじゃねえ。同情でもねえが」
答えあぐねていると、親方はまあ聞けと手を突き出す。
ボクはさっきの感情から抜け出ることは出来ていなくて、そう言ってくれるのも申しわけなくて堪らない。
それでも言うべき言葉を見つけることは出来なくて、結局はただ親方の話を聞いた。
「お前さんは自分を少年と呼んで、その美人さんを女性と呼んだ。
俺の勝手な想像だが、自分の生きている価値なんかないと思ってねえか?
それでも仲間やら何やらに助けてもらって、やっと生きてて。それがまた申しわけないとか思ってねえか?」
心臓を、ぎゅっと掴まれた気がした。
親方の言ったような内容を、思い浮かべたことはない。
そんなことを考えてはいけないと、いつも掻き消しながら生きているから。
「自惚れるんじゃねえよ」
親方の目は、優しいままだった。
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