第351話:下世話な話

「その名前は、貴族の中でも有名だった。いやもちろん、貴族同士で有名も糞もないがな。ある噂で有名だった」

「噂、ですか」


 あまりいい予感はしなかった。フラウが何のために、貴族として振る舞っていたのか。それを思い出せば、大体の想像はつく。


「俺みたいな叩き上げの耳にも、その噂は届いた。百人隊長だからっていうのは、あっただろうが。つまり耳のいいやつなら、下っ端の兵士でも名前くらいは知ってたってことだ」

「なるほど──それでその噂というのは?」


夜の淑女ドミニアノクティス。いつも黒いドレスを着て、こちらからの誘いには乗らない。いい加減に夜も更けてくると、いつの間にか消えている」


 そんな風に呼ばれていたのか。確かに初めて会った時も、黒いドレスを着ていた。次に着替えた時も、どこへ行っても。


「その時には必ず、主賓の一人も消えている。そうなると、周りの奴が想像するのは一つだわな」

「状況がたったそれだけなら、偶然かもしれませんよね」


 その想像は、たぶん正解なのだろう。違っていても、それほど遠く外れてはいない。

 でも王宮や貴族の屋敷で行われるパーティーで、男たちに言い寄られるフラウ。そこから先のことをあれこれ兵士に妄想されるフラウ。

 そんな情景を思うと、否定の一つもしたくなった。


「まあな。しかし、一夜限りのことと割り切れる男も居れば、そうでない奴も居る。俺たちの耳に入るのは、そうでない奴のほうの話だ」

「はあ……」


 シャムさんなんかは、黙っていても行動が派手すぎて隠しきれていない。でも決して、あんなことやこんなことがなどと、女性との逢瀬を自慢したりはしない。


 でも酒場に行くと、男たちの話の半分くらいはそういう内容だ。身分が違ったところで、行動に大差はないということなのだろう。


「どこまでが本当に聞いてきた話で、どこからが妄想を乗せたもんだか分かりゃしねえ。しかしまあ、パーティーの警備なんざ暇だからな。特に休憩中は、そんな話をするなって言う理由もない」

「真面目な話しかしない人っていうのも、なかなか居ないでしょうからね」


 親方はまだ兵士だったころのことを、思い出しているらしい。どうして罪を犯すことになったのか経緯は知らないけれど、軍人としての記憶は嫌なものではないようだ。


「ああ、内容もかなり具体的だったな。どこで覚えたのかってことを、あれもこれもしてくれるってな」


 その、あれとかこれとかいう内容は、ボクに取って聞くに堪えなかった。

 実際に耳を塞ぎかけたけれど、ボクが聞かなかったところでその事実は残る。フラウに繋がることであれば、どんなことも逃したくない気持ちが僅かに勝った。


「その時は立場もあって話に混ざることが出来なかったが、意識は完全に耳に集中してたな。いや俺も、それなりにはもてたんだ。それでもそんなことまでしてくれるのかって思うと、聞かずにはいられなかったな」

「ええと、はい。それは分かりました」


 そこのところは大筋でこんな感じと言ってもらえれば分かる。それにその段階も、もうとっくに越えた。噂話とは言っていても何か意図があって話しているのだろうから、そちらに移ってほしい。

 ボクが思うのとは裏腹に、親方の口は止まらなかった。この人はこんなに喋るのが好きだったのか、本当にこういう話が好きなのかと驚くほどに。


「──ていうのは、どこの伯爵だったかな。まあそれは誰でもいい。さすがに俺もその話を聞いた時には年甲斐もなく、自分の股間を気にしなきゃいけなかった」

「あの、それは分かったので……」

「何だ、猥談は嫌いか?」


 猥談って。もしかして本当に、話に興が乗ってしまって本題を忘れているのか?

 ボクも男だから、そういう話についついというのは分からなくもない。でもボクはもちろんそんな気分でないし、親方もそうだと分かっているはずだ。

 他人がどう感じていようが、自分の思うままという人なのだろうか。


「そうではないですけど──」

「じゃあ聞けよ。それでな、その次の夜の話がまた艶っぽくてそそるんだ。

 相手は爵位を継いだばかりの、若い男だ。剣を握らせたらなかなかのものだが、自分の股の剣を握られたことはなかったらしい」


「いい加減にしてくださいっ!」


 怒鳴り声が岩壁に跳ねて、奥のほうへと吸い込まれていく。穴の入り口から、ひゅうと風が巻いて頬を撫でる。

 薪の爆ぜる小さな音までも、急に羽振りを良くした気がする。

 親方は黙ってしまったけれど、驚いているのではないようだ。むしろ、にやと笑みが透けて見える。


「怒ったな」

「それは……怒りますよ」

「どうしてだ」


 くそ──。

 どうしたいのだか、親方はボクを怒らせるのが目的だったみたいだ。まさかそうなのかと思う気持ちもあったのだけれど、堪えきれなかった。


「それはフラウのことです。内容が事実だろうとそうでなかろうと、今ここで話さなくたっていいじゃないですか」

「それはそうだ。しかしお前が言ったように、まるきりの作り話じゃない。その相手になった男たちには、どうも思わないのか?」


 分かりきったことを。親方は何が言いたいんだ。

 そんなもの、腹が立つに決まっているじゃないか。それを言わせてどうしようというんだ。

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