第345話:絶望の闇
「フラ……」
視線の先。床の続く向こうに、小さな丘がある。人ひとりの大きさとは到底信じられないほどに小さくまとまっていて、質素なチュニックでさえ布が余って見えた。
そこに倒れているのが人だとは到底信じられないほどに動きがなく、胸や背中に呼吸をしている知らせはない。
聞こえるはずの音が何もしなくなって、視界の中もフラウの姿だけになった。
這いつくばったボクと、床に顔をつけるフラウとの間にも闇が浸透して、世界中の地面がボクたちだけを残して消えたかに見えた。
まるで、夜の空が落ちてきたみたいだった。
のろのろと手を動かして、体を起こす。力の入らない脚も無理に引き寄せて、何とか四つん這いでは動けた。
あれ。手と足と、どういう順で動かせばいいんだろう。
手と手が絡んで、顔を床に打ちつけた。妙に熱いとだけ感じて、痛みはよく分からない。
そうやって何度か転んで、ようやっとフラウの脚に手が届く。恐る恐る、足首に触れて揺すった。でも靴下越しの肌は無性に硬く感じて、冷たさだけが手に残った。
やはり手だ。布越しでは、よく分からない。
そう思って、また這いずって移動する。さっきからそこまでと、そこからここまで。移動する距離は減っているのに、かかる時間は増した気がする。
体が重い。つい最近、似たような感覚になった気がする。
いつだっけ──どうでもいいか。
「フラウ、起きてよ。早く逃げるんだ。二人だけで、どこかに行こう」
投げ出された手を取って言った。
ああ、やはり素肌は柔らかい。溶けたチーズみたいに柔らかい、フラウの手の平。
でも全然温かくない。鉄も木も、置いている部屋の温度に馴染むように、フラウの体温も室温に向かっている。
「フラウ。フラウ」
声を聞いてほしくて、顔を探した。
そうだ、頬を叩いてみよう。眠ったふりをしていたって、それなら起きるはずだ。悪戯をしたおしおきにほんの少し、強めに叩いてやろう。
痛くない程度に、びっくりする程度に。
「こらフラウ。起きるんだ」
白い頬に、ぺちんと軽く音をさせた。張りのある肌が、僅かに震える。
「フラウ?」
それでも彼女は目覚めなかった。
いくら呼んでも、肩を揺すっても。なすがままに体が揺れて、フラウ自身の意志が表れることはない。
「フラウ。フラウ。起きて。酷いよ。ボクは君と、まだ何もしていないんだ。君が楽しいと思うことを、たくさんしたいんだ。コラットにだって、紹介したいんだ」
その言葉を思い浮かべないようにしていたのに。無視している自分が陳腐に思える。
現実に見てみぬふりをしているのが、フラウに対して不実であるように思えた。
フラウは死んだ。
薬を飲んで。ボクの目の前で。
「フラウ!!」
きっと生まれて初めての絶叫。今後これ以上はないだろう絶叫。
悲しみなのか、怒りなのか、寂しさなのか、ともかく自分の中の思いが溢れて止まらない。
「フラウ……」
流れ出した涙も、体の中の水分を全て出し尽くしてしまいそうだ。それで干からびて死ぬのなら、それもいいかもしれない。もう世界に未練はない。
「しっかりするにゃ!」
肩に手がかけられて、無理矢理起こされた。そのまま服を引っ張って、強引に立たされる。
「団長──」
「アビたんまでそんなになったら、フロちが体を張った意味がないにゃ」
気付くともちろん、そこは元居た部屋だった。団長が居て、子爵たち、アレクサンド夫人も位置を変えていない。
「……団長は、フラウがああするって気付いてたんですね」
「フロちの存在がアビたんの生死を左右するほどだったら、そうするようにあたしが言ったにゃ」
団長が? 死ねと言った? それでフラウは死んだ?
「あああああああああ!」
言葉の意味を理解した途端、ボクの体は勝手に動いていた。
拳を握って団長に殴りかかる。右と、左。一発ずつを躱されて、また右手を突き出した。
「落ち着くにゃ!」
腕を受け流されて、バランスを崩した脚を払われる。さっきまでと同じに、また床へ腹ばいになった。
と、すぐに襟を掴まれて立たされる。
視線が合うように吊るされた格好で、どんな顔をすればいいか分からなかった。
恩人の団長が、そんなことを言うなんて。信じられなかった。
「お見苦しかったにゃ」
「いや、悲しみというのはそういうものだろう。理解はする。それよりも、してやられた被害のほうが大きいな」
子爵に取って、フラウは貴重な情報源だった。何の情報だかは知らないけれど、生きていなければ叶わないらしい。
「さて、これで証人は居なくなったにゃ。まだアビたんに興味があるかにゃ」
「──なくはないが、やめておこう」
ボクの身の安全は、この場の交渉の成り行き次第では保証されるものだった。
つまり、どちらでも良かった。
それがフラウという大きな意味を持つ存在の死によって、生かされる方向に確定した。
それじゃあ全く、割りに合わないじゃないか。商売だとすれば、大損ということになる。
「ではこの件は、そういうことでお願いしますにい」
ずっと見ていただけだったアレクサンド夫人が、勝ち誇ったように言う。背中に寒気が走って、同じ空間に居たくなかった。
でもここにはフラウが居る。そうもいかなかった。
「思うところもあるだろう。続きは別の部屋を用意させようか」
「そう致しましょうにい」
子爵と夫人は、連れ立って退室した。すぐにヌラと
遠くのざわめきだけが聞こえる部屋で、団長とフラウとボクだけが残された。
襟を離されたボクは、そのまま床に尻もちをついた。
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