第344話:強い意思
遠くで、たくさんの人が騒いでいるのが聞こえる。
無理もない。町の最も主要な建物が、突然に破壊されたのであれば。
市長はその対応をしているのだろうか。
どうでもよくはないけれど、目の前で言われた言葉に比べれば、気にする必要なんてないことだ。
でもそんなことばかりを考えてしまう。
危うい真似をフラウにさせないよう、集中しなければいけないのに。
「──お前のその華奢な体で、どう命を絶つ気だ。見たところ、刃物のひとつも持っていないようだが」
はっとして、腰のナイフを勝手に抜かれないように留め具をかけた。子爵は子爵で、ヌラに何か小声で言っている。
たぶん妙な真似をさせるなとでも言ったのだろう。ヌラがフラウとの間を縮めた。
「命を絶つ理由もないだろう。拷問を加えるわけではない。その作業の時以外には、自由に過ごしてもらっていい。これまでよりも快適な暮らしを約束する」
フラウの目に強い意志が宿って、ボクの顔を眺めたあとに子爵を見据えた。
弱々しい姿は変わらないはずなのに、これまでで一番に生気に溢れて見える。
「アビスはどうするのです」
「何もしない。お前が従うのであればな」
目を閉じて、深く息が吸われた。長い睫毛がもう一度動いて、その奥にある瞳がボクを映す。
「あなたに出会えて、良かった」
「フラウ──?」
従う気なのか。それは駄目だ。
いや死ぬのはもっと駄目だけれど、子爵の言うなりに生きるなんて駄目だ。
フラウはずっとそんな人生だったじゃないか。これからやっと、普通に生きられるっていうのに。
そんなことが胸に込み上げるのに、声にはならなかった。
喉が麻痺してしまったのだろうか。冷たい息が、ひゅうひゅうと吹き抜けるだけの筒になってしまったようだ。
どうにか意思を伝えないと。ようやく出来たのは、首を小さく左右に振るだけ。
「現実を見て。この場をどうにかごまかしたとしても、子爵は諦めないわ。あなたはどんな小さな闇からでも狙われるし、私もいつか飲み込まれる」
それくらいは、ボクにだって想像がつく。
待って。今、いい方法を考えるから。すぐに考えるから。
そんな都合のいい方法があるはずもない。
結果、ボクは難しい顔をしてフラウを見つめるだけになってしまった。
これじゃ駄目だ。もう何でもいいから、せめて声を出さなきゃ。
「うまい解決法なんてないわ。まさか子爵の家に連なる人を、皆殺しにするわけにもいかないでしょう?」
「あ──」
そうか。それも一つの手ではある。ミーティアキトノの力があれば、出来ないことではない。
「あ、じゃないわ」
細い指が、ボクの口元を撫でていく。出会った最初のころみたいに、同い年でもずっと歳上の余裕のようなものを感じる。
ほんの微か震えているのに気付かなかったら、フラウはどうかしてしまったのではと思ってしまうところだった。
「本気にしないで、子爵は貴族なの。そんなことをすれば、王軍が敵になるわよ」
「それはそうだよ。だけど──」
そうしようと言ったとして、団長は絶対に応と言わないだろう。
フラウやボクの安全との天秤は関係なく、こちらの目的を叶えんがための殺戮など認めるはずがない。
「だけど、だからってフラウが犠牲になるようなのは駄目だよ」
「じゃあ、どうしろって言うの? 私たち二人ともが、誰にも知られないうちに居なくなるほうがいいの?」
答えることが出来なかった。いくら迫られたところで、決められない選択はある。
「あなたに会えて良かった。本当よ」
「──それは信じているよ」
新鮮な乳のような甘い香りが、鼻先をくすぐって消えていく。フラウの手が、ボクの顔から離れていったから。
「団長さん、アビスをお願いします」
「承ったにゃ」
フラウが横に並ぶと、団長はこちらへさがった。ボクを牽制するように、腕を横に上げて。
「団長、フラウを止めないと。どうしたらいいですか、教えてください」
答えはなかった。団長の顔はフラウと子爵たちとの方向を向いて、こちらを窺う素振りもない。
「頼りきりではいけないと分かってます。でも今は、今だけは何とかしないと……」
「フロちの決めたことにゃ」
信じられない言葉が聞こえた。
フラウが決めたこと。だから、邪魔をするなと?
言ったのは団長なのか? それともボクの聞き間違いか?
呆然と事実確認をしている自分に気付いて、そんな場合じゃないと頭を振る。
「フラウ!」
団長の腕の下をくぐって、フラウのところへ駆け寄ろうとした。
うまい策なんて後回しでいい。とりあえずフラウを連れて、どこかへ身を隠そう。どうしてそんな簡単なことが思いつかなかったんだ。
「ふがっ!」
そんな気持ちは一瞬で粉砕された。低い姿勢のボクの背中を、硬い何かが打ちつけたのだ。
「痛う……だ、団長?」
ボクを攻撃した何かは、床に突っ伏すことになったボクの上に居座っている。
首を捻るとそれは、どうしたって見間違えようもなく団長だった。
「もう他に方法がないなら、諦めるしかないにゃ」
「団長──本気で言ってるんですか」
もちろん、と。団長は鳴いた。もう黙っていろとも。
どうしたっていうんだ。ボクはどこか、違う世界にでも迷い込んだのか。こんな非情な団長なんて、見たことがない。
フラウがさらわれるのを、どうして黙って見ていなくちゃいけないんだ。
「よし、そのままこちらへ来い」
子爵もヌラも、注意はこちらは向いている。ここまでが全て芝居で、何かするのではないかと警戒しているのだろう。
ボクが知らされていないだけで、本当にそうならどんなにいいか。
「ええ。でもその前に、いいかしら」
袖先を絞っている小さなリボンを、フラウは気にしているようだった。解けていたのでもないようだけれど──。
女性が自身の服に対して、あれこれと気にする部分は理解しきれない部分がある。
それは子爵たちもそうなのだろう。早くしろとか、急かすつもりもないようだ。
「私は、あなたたちの思う通りにはならない」
そう言ったフラウは、リボンに触れていた手を口に持っていく。何かを飲み込んだようだ。
「私を動かすことが出来るのは、世界に一人だけ。アビスを危険に晒すくらいなら、私が……死を……」
不吉な単語を最後に、フラウの声は止んだ。彼女の体が床に崩れる音は、ただ布を落としただけのように静かだった。
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