第343話:黒衣の少女ー16
「あたしは団員のみんなが大事にゃ。そのみんなが大切にしたいものは、あたしも大切にしたいにゃ」
「──そうですか」
脈絡の。或いはフラウのどの思考に向けた言葉だろうか。
種類は多くあれど、ほとんどが笑みで表情を縛っている団長の意図は読めない。
「閣下は非情な方なのでえ、弱気を見せるととことん追い詰められますよう」
「あら──尊敬しているのではなかったの?」
意外ということはなかった。少し前ならまだしも、今の彼女の感情は全てブラムに向いているだろう。ユーニア子爵への忠誠とかそういったものは、以前にしても方便だったに違いないのだ。
ただそれを、今ここで打ち捨てる理由があっただろうかと怪訝に思う。
「尊敬している人の全部を、必ず好かないといけないなんてことはないですよう」
「そう──いうものかしら。私には難しい話だわ」
フラウには尊敬という概念に、心当たりがない。言語的知識でいえば知っているが、自身の感情としては持ったことがない。
もしかすると、ブラムに抱いていた感情の中には含まれていたのかもしれない。しかし今となっては、それを紐解くことも困難だ。
正面に合った、オクティアとの視線。不意にその視界へ、艷やかな濃い色の流れが侵入した。
団長が自身の髪を、首の後ろから毛先へと撫で上げたらしい。いつの間にか立ち上がったその背中で、美しい滝のほとりにあるせせらぎのように、いつまでもさらさらと流れが残る。
「ありがとにゃ。気が済んだにゃ」
伸ばされた腕の先にある額冠を、オクティアもまた腕を伸ばして受け取る。それが不自然であることに、フラウが気付くには多少の間がかかった。
オクティアは気付いたのだろうか。そう思って見た時には「どう致しましてえ」と話が進んでいて、分からなかった。
「そういえば、何か話があったのではないですかあ?」
「そうだったにゃ。フロちに聞きたいことがあったにゃ」
額冠は元通りに、オクティアの胸に抱かれた。話も変わってしまって、これ以上にそのことを聞くのも何だかという感がある。
まあ当人が気にしていないのなら、余計なことを言うまでもない。
「リマっちの言ってたことにゃ」
「リマデス卿の?」
彼をブラムと呼ぶことは、もうしないと決めた。いつからでもなく、たった今から。
彼はフラウの人生に多大な影響を与えたが、もう存在しない人であり、もう必要がない。その名は、必要とする人だけが呼べばいい。その権利を冒してはいけないと考えた。
「──その卿だにゃ。フロちとアビたんとでは、今まで居た場所や時間が違うと言っていたにゃ」
「ええ。そうと認めた上で、分かり合っていきたいとアビスは言ってくれました」
よりによって、どうしてその話をオクティアの前でするのか。
反射的にそう感じてしまったものの、すぐにいやと思い直した。むしろ歓迎すべき話題なのかもしれない、と。
「そうだにゃ。でもフロちは何も言っていないにゃ?」
「私ですか──」
その時に何も意思表示をしなかったと責めているのだとしたら、無茶を言わないでほしいとは思う。
今でさえ、あの暗い隧道と現実との境が曖昧なくらいなのだ。
「ここであらためて考えてですけれど、私はアビスに任せたいと思っています。経過や結果がどうなっても、彼がすることなら──私は受け入れます」
考えて。どころか、考えながら言った。悪く言ってしまえば、その場しのぎの場当たり的な回答だとなるだろう。
しかし誓って、フラウは胸の内から出る気持ちに素直だった。それをそのまま言葉にしただけだ。
思慮が足らないと言われるのは、仕方がない。自分で自分のことを考える機会も、決める機会も、これまでなかったのだ。
覚悟や用意がないのを、今すぐにはどうしようもない。
「なるほどにゃ。そこまで信用出来るなら、それもいい手だと思うにゃ」
「あなたにそう言っていただけると、安心出来ます」
アビスは団長に頭が上がらない。
年齢とか、あれこれと技量的にとか、そういう面ではないらしい。人として、一方的に教えを受ける立場であるようだから。
人生の師ということなのだろう。その人物に保証してもらえるならば、言った通りに胸を撫で下ろすことが出来る。
「あたしは前も言ったけど、二人は似てると思うにゃ」
「伺いました」
話は終わりかと思いきや、続きがあった。ほっと緩みかけた気持ちを引き締めて、油断をなくす。
いい格好をしたいのではない。アビスに不義理となってしまうような、安易な回答をしたくなかった。
「それでも、やっぱり問題は起きると思うにゃ。普通の人と盗賊とが一緒に居れば問題は起きやすいけど、盗賊同士が一緒に居ても、やっぱり問題は起きやすいという話にゃ」
「そもそも火種がある以上は、その上に何が被さっていても関係がないということですか」
にこと笑って、「にゃん」と返事があった。たぶん肯定なのだろう。
団長は、互いの差異など気にしなくて良いと言ってくれた。
しかし抱える問題の大きさが、より深刻な溝になるかもしれないとも示唆されている。
そうなるのかしら──そうかもしれない。
そんなことはない、とは思えなかった。けれども、確かにそうだとまでも確信は持てなかった。
可能性の話なのだから、どこまで行ってもそれは変わらない。その振れ幅を小さくするのが経験や直感だが、フラウにはどちらも足りなかった。
「ごめんなさい。まだそこまで考えられていないんです」
「ああ、ごめんにゃ。考えておけと言ってるんじゃないにゃ。そういう場面は必ずあると、決めつけてるのにゃ」
うん? と首を傾げる。
だから今のうちに別れておけ、という話だろうか。そうであれば、この時間さえもないはずだが。
「そういうことがあった時に、どうするかの話をしているにゃ」
「ええと……いざという場面では、待ってもらえないと?」
また「にゃん」と答えがあった。
これは肯定だと分かるが、全く同じ反応で否定をすることもありそうだ。
アビスに会う前の自分は、こんなだったのかもしれないと人ごとのように思う。
「どう──するべきでしょうか」
問題が起きた時に、どうするか。お役目をしていた時の対応は、いくらか覚えている。
ただそれも完全にではないし、こういう時にはこうと決まりごとがあるのでもない。そのころのフラウには、必要な言葉や動作が自然と溢れてきていた。
もうそれは叶わないし、覚えているのもおぼろげなイメージだけだ。
どうしようもなく行き詰まった時については覚えている。
死だ。
でもそれを選ばなくても良いと知ってしまった。アビスがそれを教えてくれた。
「フロちは薬のことをたくさん知ってるにゃ? だからいい薬も持ってると思うにゃ」
「手持ちは何もありませんが──」
作り方はどうだったろうかと記憶を探ると、意外にもするすると引き出された。打撲なら、ホメンの葉が効く。風邪ならばリリューの茎が主材料だ。
「作ることは出来ます。でも、いい薬というのは何でしょう」
薬と聞いて、オクティアも興味を抱いたようだった。それしかなかったせいもあるだろうが、フラウも薬については知識欲のようなものがある。
きっと同じだろうと共感出来た。
「いよいよ困ったとなったら、もちろん死ぬしかないにゃ」
「死ぬための薬、ですか……もちろんそれもたくさん知っています。死ぬまでの時間を計算することも、飲んだ瞬間に息絶えるような物も」
じゃあ、こういうのは。と団長が言った効果も、フラウの知識にあった。材料となる薬草類も、大きな街ならば買えるだろう。
「そんなことをしては、アビスが悲しまないでしょうか」
批判をしたいのではない。だがそこを口に出さずにはいられない。言葉を選んで、遠慮を前面に出して言う。
それに対しても団長は笑った。案の定、「にゃん」と答えただけだ。
「ブロウシュ」
「それが薬の名前かにゃ?」
静かに頷いた。
団長の言った通り、安らかに死に顔を晒せる薬は存在する。ただし相当に貴重な成分で、どこででもは買えないし金額も張る。
ここからサマム領までの間に、入手出来るとは思えない。
「持っていますよう」
「さすがだにゃ」
暗殺を生業としているだけに、そちら方面は充実しているのだなと感心する。
しかも乾燥させた状態で、手の平に盛れるほどの量をオクティアは取り出した。
「私、お金は持っていなくて」
「フラウちゃんに必要なら、差し上げますよう。オクティアさんは、フラウちゃんのお友だちなのですよう」
口から出る言葉のうち、その全てに一割ほども増して嘘ばかりだとアビスが言っていた。
確かにどの言葉を真面目に言っているのやら分からないし、どれも真面目に言っていないのだろうと思える。
「信じてもらえないかもしれないけれど、私はあなたのことが好きだと思うわ。これからずっと、忘れることもないだろうし」
「オクティアさんも大好きですよう。だから盗賊のみなさんと、どこかで幸せに隠れ住むといいと思いますよう」
餞別なのか、皮肉なのか。全く分からない。でもそれでいいのだろうと思う。
「きっとフロちは、今までの自分を枷に思うことがあるにゃ。そうなったら、覚悟を決めるにゃ」
「分かりました」
真実を語らない女が三人も集まって、何を話し合っているのか。これをしがらみと考えれば気も重いが、数奇な縁なのだと思えば楽しげでもある。
いつか、面白いわねと笑える日が来るのかしら。
それから団長はすぐに部屋に引っ込んだし、オクティアは「さようなら」と言って消えた。
またフラウからは、何を言う暇も与えてもらえなかった。
「また、会いましょう」
誰も居なくなった廊下の宙に向けて、フラウは呟く。
どこからかオクトリンディアの、くすくすと笑う声が聞こえた気がした。
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