第342話:黒衣の少女ー15
サマムでの対峙から、数日前。旧リマデス辺境伯領、王家の別邸。
目覚めてそれほどの時間が経っていないフラウにも、今日はアビスたちと共にここへ泊まるらしいと分かった。
今日というなら、色々なことが起きた日だった。
これまでそれが当たり前のように──いや、それしかなかった。フラウが生きるには、その意思に沿う以外の選択肢はなかった、ブラムが死んだ。
これを先日までのフラウが目の当たりにしていたら、どうなっていただろう。
ブラムに出会う前のフラウには、それほど積極的ではないにしても自分自身の方向があったはずだ。
しかし以降では、ブラムの言葉、ブラムの意向が世界の全てだった。
諸共にとは思わなかったでしょうけれど……結局やるべきこともなくて、餓死していたかもしれないわね。
食べることをしても、人は飢える。その寸前だったと、フラウは自覚していた。
それを救ってくれたのは、間違いなくアビスだ。
二つある部屋の一方に、彼はもう入ってしまっている。同じ場所に居たいと思う気持ちはあっても、女の口からそうと言い出すことは憚られた。
何を覚えていて、何を失ったのか。何が先で、何があとに起こったのか。そんなことが滅茶苦茶になってしまっていても、はしたないことだとは分かってしまう。
形式として染み付いた作法や振る舞いというのは、怖ろしいものだ。その感覚と、一瞬たりとも彼と離れるのは不安だという気持ちと。フラウは心を二つに割っての、大戦を繰り広げていた。
「フロちは、どっちがいいかにゃ?」
「え?」
部屋割りを指図していたのは、アビスの属する盗賊団の首領。団長と呼ばれる女性だ。
港湾隊の女隊長は、男性と同じ部屋などあり得ないとか何とか。自分からもう一方の部屋に入ってしまったが。
あと二人の団員も、女隊長と同じ部屋に入っていった。これはそのほうが面白そうだと、団長が言ったからだ。
私はどちらでも、好きに選んでいいということ?
そう考えたことが、歓喜の方面に寄った感情であると自覚して、顔が赤らむのを必死に耐えた。
耐えようとして、耐えられるものでもないとは思うが。
「ちょっと話してもいいかにゃ?」
「ええ。何かしら」
時間を寄越せと言った割りに、団長はあらぬ方向へ視線を走らせる。何か探しているようにも見えるけれど、虫が飛んでいるでもなし。
何をしているやら、さっぱりだ。
「そこかにゃ」
一つ先の部屋と、そのまた先の部屋のちょうど間くらいの壁を指して団長は言う。縦に木目の走った、上等な塗りの壁。そこへ特に、何かがあるようには見えない。
微かな軋み音がした。木と木が擦れる、乾いた音。
「おやあ、さすがですねえ」
壁の一部が細い扉のように開いて、中から現れたのはリンデ。アビスは、オクティアと呼んでいたか。
「一旦は見失ったにゃ。でも時々、気配が漏れていたにゃ」
「おみそれ致しましたあ」
それは二人の、再会の挨拶のようなものなのだろう。言葉のやりとりは成立していても、互いの視線は相手を探ろうとしている。
「まだやり残したことがあるの?」
ブラムは死んだ。本人の口からそうと聞いたのではないが、彼女は彼のためにここへ来たのだろう。
どこかへ逃走していたのでなく、先ほどのようなところへ隠れていたのだとすれば、残る理由はないはずだ。
「それほどでもないのですよう。でもやっぱり、あなたのことは気になるかもしれませんねえ」
「あの人が、ずっと私を傍に置いたから気に入らないの?」
そんなことを彼女が感じているとは知らなかった。しかし今日の僅かな時間で、嫌というほどに知ってしまった。
彼女に変化があったのではない。そうと知る、新たなきっかけがあったのでもない。
変わったのは、フラウの心だ。
「ええ。どうしてあなたなのか。私のほうが、彼を満足させてあげられる。私のほうが、彼を愛している。なのにどうしてって、ずっと思っていたわ」
「私には、あの人の気持ちは分からな──知らなかったわ」
今となっては、フラウはブラムの思いの全てを知っている。人ひとりの気持ちは膨大で、事細かに説明は出来ないけれど。
これについてどう思っていたのだろうと問いかけてみれば、薄い布を透して見るくらいにはそれが分かる。
「でももう、あなたにかけられていた呪いは終わった。あの人の命も果てた。これからは、私だけの物」
幸せそうに。オクティアは、自分の胸を抱いた。そこにはあの額冠がある。溶けてしまいそうな恍惚とした表情に、危うさと絶頂が共存していた。
「ええ。私はそう思わされていただけ。そうでなかったとしても、今は別のところに思いがあるわ」
「あなたに譲ってもらったみたいで気分は良くないけど、これからの時間のほうが長いものね」
それを祝福する言葉は、どれを選んでも白々しくなりそうだった。だからフラウは、ただ頷いた。
「ちょっとそれを貸してもらえるかにゃ? 造形を見たいだけにゃ。すぐ返すにゃ」
身軽なキトルがそうしたところで、どれほど違うものか。それでも一動作分の遅れが出るよう、団長は床に座って言った。
「構いませんよう。あなたは信用出来るみたいですからねえ」
オクティアもしゃがんで、額冠を差し出した。
それを手に取って、団長はまじまじと眺める。すぐ返すという言葉を裏付けるように、オクティアの手から指一本ほどしか離さない。
「用件はそれだけかにゃ?」
真剣な目は額冠に注いだまま、団長は聞いた。オクティアに向けられていたはずだが、彼女はすぐに答えようとしない。
「……これから、ユーニア子爵のところへ行くのでしょうかあ」
いくつもの言葉を並べて、厳選したのだろう。普段よりも更にゆっくりと、その言葉は紡がれた。
「フロちとアビたんは、行くことになってるにゃ。あたしたちは、カテワルトに帰るにゃ」
「アビスはアレクサンド夫人に呼ばれたと言っていましたけど」
「本当にそうだと思うかにゃ?」
思わなかった。アビスが嘘を言っているのではなく、先方が勝手にそう計らっているだろうという意味で。
でなければ、先のサマム領に呼び出される理由がない。
何を考えているのか、何を知っているのか、見透かしているのね。
好き嫌いとはまた違う。強いて言えば、恐怖だろうか。より正確に言うと、畏怖かもしれない。
神とか精霊とか、そんなものが人の行いを監視していると聞いた時の感情に近い気がした。
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