第331話:希望の声
「ですからこの精算の場に、この子が居ることを認めていただきたいのですにい。本人もそう望んでおりますにい」
精算? ボクが望んだ? 何のことだ。
精算とはユーニア子爵家との間に、何らかの商取引が発生したということか。しかも互いに忙しい身分なのに、どちらも代理を立てることすらせずに。
そんな場所に、ボクが望んで臨席していると。あり得ない話なのに、夫人はそれを事実として話した。
ボクは何かの罠に、嵌められようとしているのか?
「ほう? それはその少年を殺せと急かしているのか、命乞いをしているのか。どちらだ」
「おやおや、そのようなつもりは毛頭ないですにい。物騒なご冗談は、肝が冷えますにい」
ヌラが答えるのを待たず、子爵自身が言った。姿勢や語気がそれほど変わってはいないけれど、顔には険が加わっている。
冗談とはとても思えないし、扇を優雅に泳がせる夫人もそう受け取っているようには見えない。
「シャナル。問題を提示せよ」
しばらくの睨み合いに音を上げたのは、子爵だった。いや睨んでいるのはそのままだけれど、長く膠着させても無駄だと見切りをつけたのだろう。
「はっ、そのように。まず以て、彼は盗賊ということ。商会と、或いは夫人との関係に疑いが残ります。次に、王軍にも先の辺境伯の側にも通じていること。これを置けと仰るのは、些か我が侭が過ぎると言わざるを得ません」
それはボクの立っている場所。望んでいるかは別にして、現在を正しく言葉にされた。
それがどうかしたのかと思ってしまったけれど、すぐに悟った。どうかしないわけがないじゃないかと。
「もう一つ、本来は彼そのものの問題ではありませんが。隣に居る少女は、こちらの道具です。速やかに返還を願います。と、言えば拒むのだろうと」
なるほどこれは、裁判なのだ。法を定めるのは、ユーニア子爵。彼の都合がこの場の優先事項だ。
ボクもフラウも、そういう意味で言えば自由に生きてもらっては困るのだろう。
言ってしまえば、それは団長たちだってそうだ。でも自分たちのコミュニティ以外のどこにも属さない人を、同じように話したって意味がない。
ボクはアレクサンドの子息という顔を、フラウは反乱に向けた工作を行ってきたという顔を。
二人とも、今となっては表面上に過ぎないけれど、持ってしまっている。
「アビスさん、その娘をお返しなさいにい」
「お断りします」
この次にはどんな言葉が出るだろうかと、予測していたうちの一つが聞こえた。それも最も承服しかねるやつが。
だから即座に、全くの隙間を入れずに答えることが出来た。
一瞬たりとも、迷っただろうなんて言われる余地がないくらいに。
「アビシニア、命令ですにい。その娘を子爵にお返しするですにい」
「断ると言いました。それにどうしてあなたの命令を、ボクが聞くと思うんです?」
この答えはまずい。
これを交渉として、なるべくこちらの得が多いように運ぶのだとしたら。今の回答は、全くなっていない。
でも思い返したところで、やはりボクは何度でも同じことを言う。
ボクはフラウと一緒に居ると決めた。ボクの安全を図るためにフラウを見放すなんて、そんな選択肢は存在しない。
「それが証拠として、やはり彼はアレクサンドの関係者でさえないと断ずるしかありませんね」
「困ったものですにい」
この部屋の床には、厚い絨毯が敷いてある。でもそれにしたって、普通の靴を履いているヌラが何の音も立てないなんておかしな話だ。
ボクが瞬きをした一瞬で、ヌラはボクの真横に居た。その手はボクの首にかかって、指先は骨と骨の間に当てられている。
ヌラが力を込めれば、ボクの首は折られてしまう。そう理解して、冷や汗がつうっと背を垂れた。
「困ったものではありますけれど、やはり息子には違いないのですにい。反抗期は、ございませんでしたかにい?」
「なるほどそう仰られると、若気の至りの幾つかが恥ずかしゅうございます。しかしここは精算の場。折り合いがつかねば、こうもなりましょう」
文字通りに命を握られて、体の芯まで冷える心地だった。
でも一つだけ、そうでない場所がある。
ボクの隣に座るフラウがずっと、こちらに脅しの文句がかかってからずっと。ボクを頼って伸ばした腕が、ボクの左腕を温めている。
その反対に立つヌラから、ボクを引き戻そうとするように。これは私のだと主張してくれているように。腕にかかる力が、強められていく。
「ボクも少しくらい話させてもらっても、いいんじゃないですか?」
「ええ、構いませんよ。あまり見苦しいようだと、この手に力が入ってしまうかもしれませんが」
違和感があったのだ。その時からずっと。どう考えたっておかしいのに、ボクの感覚ではその証明が出来なかった。
でも少し前から、それは向こうから所在を示している。
「ここが商談の場だと言うなら、ボクも自分の命を買う交渉をしたいんですよ」
「ほう、そんな価値のある物をお持ちですか。お人の悪い、先ほどそれを聞きましたものを」
証拠を見せるから腕を動かして良いか聞くと、少しだけ首の手が緩められた。もちろんボクが何をする暇も生まれない、僅かな猶予だ。
しかしそれはいい。ボク自身がどうしたって、ヌラに敵うはずもない。いつかそれも出来るように頑張るとしても、今は信じるしかないのだ。
どこからか時折聞こえる、キトンの声を。
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