第310話:立ち込める煙
「まあまあ、いつまでもそんなところに座っていないでですよう」
脇からすっと手が伸びて、ボクとフラウに差し出された。
右と左の手をそれぞれ握ると、意外に力強く引き起こされる。支えるオクティアさんは、全く揺らぎもしなかった。
「良かったですねえ、フラウちゃん。戻って来られて」
「ありがとう。あなたはオクティアさん──で合っていたかしら」
手を繋いだままの二人は、見つめ合っていた。でも途中で一度、オクティアさんの視線が斜め上に逸れて帰ってくる。
フラウに名を確認されたのが、不満だったのだろうか。もしかしてそれをネタに、また何か欺こうと……。
さすがに無理か。
「あららあ、まだ思い出せませんかあ。お薬が効きすぎて、忘れていることがやっぱり多いみたいですねえ」
「私が? 何かしら。でもごめんなさい。きっとあなたの言う通りだわ」
ボクはフラウの過去を見た。でもそれは、それを見たボク自身でさえも本当に見たのか分からない、夢か幻のようなものだ。
オクティアさんは、その場に居たという。だとしたら、ボクが見た光景の中にも居たのだろうか。
それにフラウが、そこでしてきたことを忘れていると言っているのか?
今の会話に、そんな話はなかったように思ったけれど。ただオクティアさんのことを思い出せていないと、ただそれだけだった。
もちろんそれが、寂しいことだとは理解する。
「それがブラムさまの意向だったのですよう。お役目のために、そうしないといけなかったんですねえ。仕方がないですねえ」
オクティアさんは繋いでいた手を離して、フラウの首に両腕を回す。そのまま柔らかく抱きしめて、労るように背中を撫でた。
「もう縛られなくていいんですよう。ブラムさまのことは忘れて、自由に生きるといいですよう」
そもそも一方的に知っているという相手で、また記憶が曖昧になっている今。フラウはその行為を、どう受け止めたものかと戸惑っていた。
フラウからも抱きしめ返したほうが良いのだろうかと、宙を泳ぐ両手が語っている。
「親愛を深めているところを悪いのだけれど、そろそろ話を聞かせてもらえるでしょうか?」
フラウの目は覚めたことだし、彼女についてこれ以降のことはすぐにどうともすることが出来ない。
他に考えるべきことがないのであれば、代わる代わるに気の済むまで。この場に居る全員が、互いに気持ちを交わしあっても良かっただろう。
リマデス卿は、よそでやれと言うだろうけれど。
しかしもう一人、いつまでも静観しては居られない人が居た。
額冠がフラウの意識を戻すのに使えると、それを待てと言うほど役目大事の人ではない。
けれどもそれが叶った今となって、盗まれた物とその事実を知っているらしい人を、いつまでも放っておけるはずはない。
「カテワルトの治安を守る港湾隊として、場所が違えども罪を見逃すことは出来ません。お話を」
「逃げも隠れもしませんのでえ、夕食でも食べながらというわけにはいきませんかあ?」
「そういうわけには」
フラウを抱いたまま、オクティアさんは「困りましたねえ」と話し続ける。
本人の言う通りに逃げたりしようとする気配はないので、ミリア隊長もそれを無理矢理に引き離すまでする気はないようだ。
「リンデ、話してやれ」
「……ブラムさまは、どうされるのですかあ?」
リンデ? ニックネームか何かだろうか。
その名で呼ばれたオクティアさんは、これまでと同じような話し方で、でも何か不服そうな響きを返す。
「俺も疲れた。あとはこいつらに、首都の様子でも聞いて寝るとしよう」
「左様ですかあ。おやすみなさいませ」
主従の会話と言うには、視線を交わすどころか体が向き合ってもいない。オクティアさんに至っては、まだフラウを抱きしめている。
「ああ、おやすみ。俺も待ちくたびれた」
そこでようやくフラウは解放されて、オクティアさんはミリア隊長に別室を提案した。
リマデス卿はボクたちにまだ聞きたいことがあるようだから、その邪魔は出来ないと。
「了解しました。案内していただけますか」
「畏まりましたあ。こちらですよう」
先に立って、オクティアさんは衝立の裏へ回ろうと歩き始めた。
彼女を思い出せないフラウは、戸惑う姿勢のまま置き去りに──いや、少しおかしい。
浮いていた手が口元へ動き、空いた口を塞ぐ。それがまたオクティアさんの居る方向へと伸ばされて、呼び止めようとしている。
「あな──あなた。あなたは、リンデ!?」
普段通りのゆっくりとした歩みでいたオクティアさんが、ぴたと瞬間に止まった。
まず視線がフラウへ向けられ、それを追うように首も回る。目が閉じられて優しい表情が浮かぶと、至極ゆったりとした深い頷きがあった。
「ええ、そうよ。私はリンデ。やっと思い出してくれたのね」
「リンデ──短い髪の。生きていたのね」
「ええ、髪はもっと短かったわね」
フラウと同じような、はきはきとしていて清楚な口調。声も似ている。フラウの声に疲労が乗っていなければ、区別がつかなかったかもしれない。
というかわざわざ切って見せた、その髪も嘘だったのか。
その髪を撫でながら、オクティアさんは別人に入れ替わったかのようだった。
何のことやらよく分からないけれど、やはり彼女はレリクタでフラウと面識があって、名前はリンデというらしい。
「名前も嘘だったのか──」
「ええ? オクティアさんは、嘘なんて吐いていませんよう」
彼女はまた元に戻って、主張する。しかしそう言っている間にも右腕だけは動いて、衝立の上をついと撫でた。
「でも私、あなたのことは嫌いなの。それだけは嘘だったと認めるわ」
また口調が変わって、何やら握った物をぐいと引く。
部屋の四隅で袋の破けるような、破裂音がした。そこにはそれぞれ家具があって、何ごとか確認は出来ない。
しかし何が起きたかは明らかだ。毒々しい色の煙が立ち込めて、部屋を覆っていく。
サバンナさんは床を蹴って、窓を割りに行った。団長とメイさんは、やることがないというようにそのままで居る。
ボクはフラウの顔を自分の胸に押し当てて、自分の口には手拭いを当てた。
部屋の一角に近かったミリア隊長は、激しく咳き込んでいるらしい。煙で視界を塞がれてしまったけれど、その声だけは聞こえた。
しかしその色と勢いととは裏腹に、煙はすぐに消えた。十を数える間もあったかどうかくらいだ。
特に体への影響も感じられない。どうやら単なる煙幕だったらしい。
もちろんその数秒の間に、オクティアさんの姿はなくなっていたけれども。
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