第309話:ずっと忘れない

 意思が強そうでいて、どことなく柔らかい瞳。素直に通った鼻筋。小さく形のいい唇。

 とても短くなって汚れてしまってもいるけれど、それでも光を通す細い髪。華奢な腕と脚。

 遠慮がちに弾力を示す胸と、ボクの太腿くらいしかなさそうな腰。


 そんな全てを、ボクは抱きしめた。

 それは総じてフラウという名前で、ボクはその女性を大切に思いたい。

 知り合ってからそれなりに経つけれど、ようやくお互いが目の前に立てた。だからこれからはずっと、この距離を保っていきたい。

 もしこれよりも近付けるのなら、もちろんそうしたい。


「アビス?」


 不安そうな声が、耳元で聞こえる。床に座ったまま、抱きしめるボクのなすがまま。


「うん。フラウ、アビスだよ。君をずっと追いかけて、ここまで来てしまった。迷惑に思われないといいんだけど……」


 まだまだ抱きしめていたかった。

 でも顔を見ていないと、フラウも不安が増すかもしれない。だからもう一度少し強く抱きしめて、体を離した。


 でもやはり、またすぐに抱きしめたくなってしまった。

 せめてその代わりに手を差し出すと、フラウはそこに自分の手を重ねてくれる。

 良かった。何かの間違いで、近寄らないでとか言われたらどうしようかと思った。


「あなた──が、アビスよね?」

「──フラウ?」


 ボクをボクだと認識していない? いや、記憶がないのか?


「まさかフラウ、覚えてないの? ボクのことを忘れてしまった?」


 焦る気持ちをなるべく抑えて、高鳴る胸の鼓動も無視して、あえて平坦になるように聞いた。

 ボクの焦りは、フラウの焦りを呼んでしまうかもしれない。長い呪縛から解放された──はずのフラウに、そんな思いは出来るだけさせたくなかった。


「…………いいえ」


 ゆっくりと小さく首が横に振られて、詰めていた空気を吐き出してしまうのは避けられなかった。


「覚えているわ。あなたはアビス。ずっと、私を呼んでくれていた。聞こえていたわ」

「あ、うん。ええと──聞こえていた? それは何だか恥ずかしいね。でもそうだよ。ボクは君を呼んでいた」


 まだ混乱しているだけだったかと、ボクは安堵を顔に浮かべたのだろう。それを見たフラウは、申し訳なさそうに身を縮ませる。


「どうしたの?」

「覚えているわ、あなたのこと。でもそれは、何だか自分の記憶ではないような気がして──いいえ、私の記憶に間違いないの。それも分かっているの」


 どういうことだろう。

 覚えていることが、自分の記憶じゃない。つまり誰か他人の記憶を見せられているようだということか。


 だとしたらリマデス卿の意識が、影響を与えているのかと考えかけた。

 でもそれはないだろう。もしも卿の意識なら、こんな曖昧な感じでは済まない。一度に何もかも塗り替えてしまうはずだ。

 額冠のことについて何を理解しているでもないけれど、卿の性格を思えばそうだとしか考えられない。


「落ち着いて、どういうことだか教えてもらってもいいかな。大丈夫。ここには君を急かす人なんて居ないから」


 フラウは意識がどちらを向いているのか、まだ定まっていない風だった。分かりやすく、寝起きの表情と言ってもいい。

 その顔がぐるりと周りを見渡して、たぶんひとり一人が誰か考えているのだろう。

 多少の時間を使ってから、また視線がボクに帰ってきた。


「あなたのお友だちね。それに、ブラムさ──リマデス辺境伯」

「そうだよ。辺境伯も、もう君に何もさせるつもりはないから平気だよ」

「ええ、知っているわ。本人に聞いたから」


 記憶と現実をすり合わせてその確認をするように、フラウは何度も頷いた。その最後に悲しそうな顔で目が伏せられ、思い直してまたこちらを向く。


「私が自分の目で見て、感じて、経験した記憶だと知っているわ。でも今の私には、それは舞台の上のお芝居を見た記憶のように思えるの。そうだとしたら私は女優のはずなのだけれど、私は観客なの。分かってもらえるかしら……」


 そんなこと、もちろん分からない。でも理解しようと考えているうちに、幼いころのボクを思い出した。

 ずっと昔だから、断片的ではある。それにその情景は覚えているのに、こんなことがあったっけ? と自分を疑いたくなる。


 もしかするとそのころからボクは、なるべくものを考えないようにしていたから。自分がどういう境遇に居るのだか理解しないようにしていたから、そのせいかもしれない。


「同じかどうか分からないけど、何となく似たような記憶はボクにもあるよ。だから分かるとも言えないけど、それで今を困っていないならいいと思うよ」

「いいの──?」


 彼女はこれまで、決められた役目を果たすことしか教えられていなかった。それ以外に考えるべきことはなかった。

 だから正体不明な記憶なんて、持っているのは不安だろう。


 というのは、ボクの勝手な想像だ。実際にはフラウに聞いてみないと分からない。でもそれには時間がかかり過ぎる。今すぐに片付けようなんて、無理な話だ。


「君が望むなら、それをボクに教えてほしい。ゆっくりと、時間をかけて。望まないなら、なかったことにしてしまえばいい。もしかすれば、いつか懐かしむことだってあるかもしれない」

「懐かしむ……」


 なかったことにしろなんて、無責任と思われるかもしれない。ひとごとだと思って、好きなことを言ってくれると。

 でもそうするしかないことだって、あると思う。地面に描いた落書きではないのだから、それで消えてしまうわけでもない。


 フラウは嫌々をするように、また首を振った。また記憶を辿っているのか? それともボクの提案を拒否しているのか?


「あなたに話したら。あなたは、どうしてくれるの?」

「分からない」


 何か対策でもあって言ったのではないのか。そんなぎすぎすとしたことは思っていないだろうけれど、意外だという表情が見えた。

 ボクが団長に肩透かしを受けた時も、こんな顔なのだろうか。


「君の大切な過去だから、すぐにこうとは決められないよ。だから一個ずつ、ボクにも考えさせてほしい。君が話してくれたことを、順番に考えよう」

「一緒に考えようと言っているの?」


 頷くと、フラウは困ったという顔になる。

 今度は何だろう。もちろん何だっていい。どうするか二人で考えるのは、もう始まっているんだ。


「きっと──たくさんの時間を使ってしまうわ。きっと私は、以前ほどにお話も上手く出来ないわ」

「たくさんの時間を一緒に使おう。君の記憶を、君の気持ちを、全部掬い上げよう。それをどうするかは、君が決めればいい。ボクにはその手伝いをさせてほしいんだ」


「全部?」

「そう、全部」


「ずっと?」

「ずっと」


 フラウは顔を伏せて、静かに呼吸を繰り返した。何か悩んでいるのだろうか。気持ちを落ち着けるようなことでもあっただろうか。


 ボクの背中を、誰かがつつく。

 こんな時に次の扉をノックするのは、いつだって団長だ。そうに決まっていると、振り返ろうとした首を押さえられた。


「泣いてる女の子から、目を逸らしちゃ駄目にゃ。まだ肝心なことを言っていないにゃ」


 肝心なこと?

 フラウに伝えたかったことは、何もかも言えた気がしていたけれど。まだ何かあっただろうか。


「難しいことはいいにゃ。アビたんがどうしたいのか、さっくり言えばいいにゃ」


 ううん──確かに色々ややこしく言った気もするけれど。さっくり。簡単に?

 取り纏めろということか。


「ボクは──」


 言いかけると、すぐにフラウの目がボクの目と合った。ボクが何を言うのか、聞き逃さないようにしていると分かった。


 なるほど。確かにそうだ。フラウにどうしてあげたいかということだけを言って、ボクがどうしたいのかは言っていなかった。

 やはりまだまだ、ボクは一人で何もかもをは出来ないらしい。


 でもまあ、ボク自身の気持ちくらいは分かっている。


「フラウ。ボクは、ずっと君の傍に居たい。君もボクの傍に居てくれるかな」


 長い眠りから覚めたばかりの女の子は、ぼんやりとした表情を凍らせた。

 それからすぐに、口元がぎこちなく動いて、頬も僅かに上がる。目は少しばかりカーブを増しただろうか。


「ええ、そうしてほしい。私もそうしたい。ずっとあなたの傍に居させてね」


 きっと生まれて初めての、そのぎこちない笑顔。ボクは決して忘れない。

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