第308話:黒衣の少女ー14

 暗黒の隧道トンネルに、得体の知れない濁流が押し寄せる。どうしたところで自身を巻き込むそれを、フラウは怖れた。


 せっかくここまで来たのに──。


 行き先は変わっていた。探す対象と言ってもいい。

 いざとなればそこに死を持ってくることは出来たが、たった今はその必要を感じなかった。


 なぜ?

 自分に問いかけても、確と組み立てられたものはない。けれどもやはり、あの声だろう。頼りなげではあっても、柔らかくて混じり合うようなあの声。


 それはどこから発せられているのか。フラウはそれを探しているのかもしれない。

 時を追うごとに、その声は強く、頻度を増して聞こえた。それはたった今もだ。


 何と言っているのかは、相変わらずよく分からない。何か、何者かが、その音が届くことを邪魔しているようにも思えた。


 直に、大きな波がフラウを包む。温いようでいて冷たくもあり、そこに居ることは苦でなかった。

 それがブラムの意識であることは、すぐに分かった。フラウも見覚えのある景色が、いくらも見えた。


 ユヴァ王女──。

 その名は聞いたことがあるけれど、関わりがあったとは知らなかった。それが彼の今を形作っていることも。


 レリクタ。

 そこで彼と出会った。フラウにとって、全てが始まった場所。彼にとっては道具を見繕い、より研ぎ澄ます場所。

 それでも必要とされたから、そのために育てられたから。今更その意味を、違うものと差し替えるなど出来ない。

 そう思った。それ以外の意味など、教えられていなかった。


 王子たちと、王家への怒り。

 それは今も滾って、冷めることなど未来永劫にないのだろうと見えた。

 それはただ一人の無念であって、国とか世界とかを語る上では問題とならない。だから彼だけは忘れないのだと、納得出来たしそうだろうと思えた。


 しかしそれでは、フラウのこれからはどうなるのだ。

 フラウが貴族たちを籠絡することで、同じような思いをした人たちも居るだろう。それを発端、きっかけにした陰謀によって命を落とした人も居るだろう。


 フラウはその人々を、振り返ることがなかった。

 関わったあとのことを知らされなかったというのもあるけれど、知ろうとしなかった。知りたいとも思わなかった。

 どうして彼は、自分や彼女と同じような思いを多く作らせたのだろう。

 どうしてその役目を、フラウに与えたのだろう。


 それは彼にも分かっていなかった。いくら問うても、探しても、その答えはどこにも刻まれていなかった。


「お前じゃない!」


 はっきりと、その声が刻まれていた。

 言葉も声も、曇りなくフラウへと届く。探していたものが、突然に現れた。


 これは、誰?


「フラウのやりたいことを、させてあげたい」


 彼はその誰かを侮り、馬鹿にした。見ず知らずの小さな声の一つと、聞き流そうとした。

 でも、そうはならなかった。


 その声の主は、彼の前に何度も現れた。それほど強い存在ではなくて、彼はその度に払い除けた。

 しかしその声が止むことはなかった。


「フラウを返せ」


 返せ?

 まるでブラム以外に、フラウを持ち物に出来る者が居るかのようだ。

 城の、邸宅の、薄暗い陰で。贅沢な彩りに包まれた寝室で。人目を憚り、或いは見せつけるように。

 フラウを自分の物だと言った人物は、数え切れない。


 そのどれもが、フラウを財産のように言っていた。大きな宝石、多額の金銭。自分を飾る、衣服や鎧。そんな物と同列に言っていた。

 

 物であることは、否定しない。

 しかしそうであるからこそ、持ち主ははっきりと決まっていた。分かっていた。

 捌き方を知らぬ者は、肉や魚の真の所有者にはなれないのだ。そういった人々は、食事を振る舞われる客でしかない。


 お客さまだから、奉仕もしていたのよ。その対価を、彼らは理解していなかっただろうけれど。


 やはりブラムに所有されるしか、有り様はないらしい。そう思いかけたところに、また大きな流れが割り込んできた。


「戻ってきて。フラウ」


 温もりなどは通り過ぎて、熱くて堪らないほどだった。火傷をしてしまいそうなほどの思いが、どうしてだか尊く思える。


 これは誰?


 その熱い思いからは、何者であるとも知れなかった。だがブラムの意識に、答えがあった。


 実力など何もないくせに、しつこくて諦めの悪い男。

 死の向こうからもフラウだけを求めて、フラウが自由に生きることを望んで、そのために這いずり回る男。


 気品の欠片もない盗賊の中でも下っ端の、アビスという名の小僧。

 ブラム流の賛辞と共に、その名が刻まれていた。


 アビスの思いに触れて、ブラムの思いは挫けていた。

 フラウを求めたのは、ないものねだりだったと。ユヴァを失った代わりにならないかと、フラウだけでなく全てを思い通りにしようとしていたと。

 それは不可能だったと。


 ああ──私は一人だったのね。


 そこに居ることをブラムが認めるから、フラウは存在しているのだと思っていた。

 けれどもそんなことは関係なく、ただ一人の人間だと気付いた。


 これまでそれが唯一の真実であったなど嘘だったかのように、あっさりと崩れ去った。


 と、フラウが理解した途端。隧道が崩れた。

 鏡が割れるように粉々に、それでいて音もなく。すっと消えた。フラウを囲んでいた黒く小さな何かも、ずっと近くにあった死でさえも。

 何もかもが、遠ざかる闇の中に埋もれていった。


 それで景色の全てが透き通ったわけではない。しかし直接にフラウを縛ろうとする物はなくなった。

 ようやくこれで、どこで生きるかを決めるくらいの自由は得られたのだと理解した。


 唐突に得られた自由。それは広大な世界へ、何も持たずに放り出されるようなものだ。

 しかしフラウは迷わない。

 信頼に足る道しるべは、もう見つけていた。


「行くわ。あなたのところへ」


 フラウは朝霧にも似た朧げな世界から、自分の足で跳び上がった。

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