第305話:緊張が切れて
「そんなことをすれば、あなたたちも助かるまい。また、はったりだ」
あの糸を引けば、この部屋に毒の霧が充満する。
いかにキトルが素早くとも、衝立を回り込んで扉を開け、霧の届かない場所まで離れる時間はゼロではない。
そういう筋書きだとすれば、ミリア隊長の言う通りでもある。
しかし、それは間違っている。
「何のことだか分かりませんねえ。ああ、でもちなみに教えてあげますよう」
首を傾げて、分からないとジェスチャーをする。それはもちろん、全て分かっているというジェスチャーとしてこちらには映る。
その間にも彼女の手は糸を手繰って、弛んでいたものをぴんと張った。あとほんの少しの力を加えれば、それが何に繫がっているかの結論が出る。
「オクティアさんは、お薬に慣れすぎてしまいましてえ。飲んでも吸っても、効かないんですよう。それにブラムさまは、ご覧の通りにお人形なのですよう」
「──!」
困ったものですねえ、と。彼女の微笑みは凶悪さを増した。
事態を把握したミリア隊長も、流石に息を呑む。それはボクも同じくで、どうしたものかと頭の中が忙しい。
せめてフラウだけでもどうにかならないか。こう言っている間に、サバンナさんが壁を破って逃げれば良いのかもしれない。
でもサバンナさんでも破れないような壁だったら?
オクティアさんはそれをきっかけに、毒を放出するだろう。
「それなら」
ずっと黙っていたサバンナさんが、口を開いた。
駄目だ。瞬間的に害を及ぼすような毒であれば、壁を破る暇さえない。この状況であれば、オクティアさんはそうしているに決まっている。
「こうすれば解決だに?」
そう言うのと同時に投げられた物体は、オクティアさんの脇を抜けて背後の壁に突き刺さる。
指一本ほどの刃渡りを持った投げナイフが、オクティアさんの握っていた糸を切っていた。
「──おっと!」
すぐに。ただし、いつも通りにゆったりと。切れた先を拾おうとしたオクティアさんの鼻先へ、ミリア隊長が立ち塞がる。足はしっかりと糸を踏みつけているようだ。
右手は
そういえばオクティアさんが、直接に格闘をするのは見ていない。ミリア隊長の剣をどうこう出来るか否かで、今の状況が変わってくる。
あらまあ。とでも言いそうな、わざとらしく驚いた顔のオクティアさん。
その両手は、ミリア隊長の首を絞めようとでもいうのか。キトンの爪研ぎのように指が曲げられ、ゆっくりと上げられる。
その動きをミリア隊長は瞬きもせずに見守って、オクティアさんの顔の前辺りに来た途端。
その両手は、ぱっと広げられた。
「なんちゃって、ですよう」
えへへと茶目っ気を恥じらう子どもみたいな笑顔で、オクティアさんは笑う。
なんだ、彼女一流の冗談か。いや本当にそうなのか。
ボクにはどちらなのか、判別はつかない。他のみんながどう判断したか分からないけれど、ミリア隊長は剣の柄から手を離した。
「よく見つけましたねえ。ちゃんと隠していたはずなんですよう」
「どうだったかにゃ? 偶然に見つけたから、よく覚えてないにゃ」
「偶然ですかあ。じゃあ仕方ないですねえ」
にゃにゃん。うふふ。と、二人は笑い合う。
「これは何でもないんですよう」
そう言って、オクティアさんはあらためて糸を拾って引っ張った。壁際のチェストの下に潜っていた糸が緊張して、ぷつんと切れる。
が、それよりあとに何か起こる気配はない。
「どういうことだか、説明はいただけるのでしょうか?」
「そんなことより、見つけたら使わせてあげるんじゃなかったでしたっけえ?」
「その通りだにゃ」
いや全然、そんなことよりではないと思うけれども。
しかし真面目なミリア隊長は、勢いとはいえ約束したものを無視出来ないらしい。
「いやそれは──そうだが、今でなくとも」
「オクティアさんは、逃げも隠れもしませんよう。先に出来ることから、やればいいと思いますよう」
いやしかし、まずは事情を。とか何とか言っているのは、もう誰も聞いていない。
団長はメイさんに返してくれるように言って、それが断られるはずもない。
「一体それをどうしたいと言うんだ!」
苛々と投げやりに、何かするなら早くしろとミリア隊長は言う。
団長はまたそれに「にゃん」と、いい笑顔で返す。友好的と言いたいところだけれど、苛々を煽っているようにしか見えない。
立てた人さし指の上で、額冠はくるくると回る。そのまま団長はリマデス卿の目の前に立ち、反対の手を腰に当てて威張って言った。
「さてリマっち。教えてほしいにゃ」
「俺にか? 何を聞きたいやら、予想もつかんが。答えられることには答えてやる」
団長はボクを振り返り、片目だけを瞑ってみせた。
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