第302話:瑣話ーある兄弟の昔語り

 拙にも、血の繋がった肉親が居た。親の姿は知らぬ。いや知っているのかもしれないが、どれがそうかは分からぬ。

 拙は、奴隷の子であった。


 ラシャ帝国の鉱山で働く人夫。監視役の兵士を除いて、そこで働く者は全てが奴隷であった。


 女の奴隷もそれなりに居て、その中のどれかが拙の母なのであろう。しかしそこで産まれた子は、全て別の場所に集められて育てられた。

 奴隷の子は奴隷であるから、ある程度育てば鉱山に戻される。しかしその時には、どれが我が親でどれが我が子か、誰にも分からぬ。


 父親についても、欲を吐き出したのが兵士なのか、奴隷なのかも区別がつかぬ。一人の女が一晩に相手をするのは、二人や三人ではないのだ。


 けれども兄弟は分かる。気付けば隣に生きて、互いを庇っておるのだ。拙にもそういう相手が一人居た。


 それは生まれながらに、多少の気を迷わせていたのだろう。兵士の指示も、難しいことは理解出来なかった。

 かといって鞭を打たれたところで、さほどに感じぬ恵まれた体は有していた。だから鉱山の最深部から、鉱石や泥土を運び出す役を担っていた。


 それよりも拙は、体格で劣っていた。しかし十を数えるころには周りのどの大人よりも大きくなっていたし、腕や脚の太さは二倍以上もあったであろう。


 ある日、それと二人で話していて気付いた。二人の親は誰であるか、該当者が居ないのではないかと。

 言い出したのは拙ではなく、それであった。


 顔が似ているかどうかなど、長年の混血が進んだその鉱山で当てにはならぬ。

 しかし体格は、拙たちから見れば小人のような親から産まれるとは考えづらい。同じ仕事をしているのだから、筋肉の付き方にこれほど差異があるのもおかしかろう。


 そこでそれが言ったのは、ずっと最深部で作業をし続けている男のことだ。


「あの人は体が大きいよ。僕たちよりもずっとね」

「僕も見たことはあるけど──うん、確かにここで一番だ」


 まだ子どもの拙たちでは、広い坑道の中で跳ねたところで天井に手は届かぬ。しかしその男はそんな中を、頭が支えるものだから首を曲げて働いていた。


 兵士も奴隷たちも、その男のことを『傾げ男』と呼んでいた。

 『傾げ男』が坑道の外に出るのを見たことはない。暴れだしては手がつけられないからだろうが、鎖を岩盤に打ち付けられていた。


 女は採掘そのものをすることはなく、夜も寝るまで男の相手をさせられる。つまり全ての人夫が外に出てしまう夜には、坑道に『傾げ男』が一人になってしまう。

 であるからそんな境遇の男が、拙らの親にはなり得ぬであろうと話を締めた。


 拙たちが鉱山を離れることになったきっかけは、鉱石を掘り尽くしたことにあった。

 既に坑道は網の目のようになって、下の地層はその鉱石が出るものでなくなっていた。


 重要な作業があるからと、奴隷は全員が最深部に集められた。もちろんそこには『傾げ男』も居る。

 坑道を横に広げるために、掘りやすくするために何やらするのだと聞いた。しかしそれには毒となる煙が出るので、奥に引っ込んでいろと。


 今となっては、それがとんでもない嘘だとすぐに分かる。毒の煙が出るのに穴の奥に居ては、逃げ場がない。

 しかし悲しいかな。そこに居るのは産まれてからずっと、土を掘るしかしてこなかった者たちだ。

 毒の出る現場に居なければ、問題ないものと信じきっていた。


「おんやあ? ヌシら、今日はどうしたことだ」

「うるさい、『傾げ男』。お前に説明する必要なんぞない」


 特別に酷い扱いを受けていた『傾げ男』は、奴隷の中でも見下されていた。ずっと共に働いていた、拙の兄弟だけが事情を説明してやっていた。


 恥ずかしながら、拙自身も僅かながらに『傾げ男』を見下していた。面と向かって毒づくのもどうかとは思ったが、親切にする必要もないと思っていた。


「なんと!? ヌシら、それでここにおるのか! いかん、すぐに逃げるが良いぞ!」

「うるせえぞ、『傾げ男』!」


 『傾げ男』が騒ぎ始めたのは、兵士たちが姿を消して随分経ってからだった。それまで事情を説明する者など居らず、拙の兄弟も器用に説明出来る者ではなかった。


 ようやく伝わったころには、既に妙な臭いが漂い始めていた。

 しかし穴の中では掘り出された物によって、多少なりとおかしな臭いがするのも当たり前であった。

 穴を掘るべき者たちは全員がそこに居るのだから、ありえないことにも気付かなかった。


「何をしておる! ヌシら早う逃げんか! 死んでしまうぞ!」


 誰もその忠告に、耳を傾けなかった。虐げられている『傾げ男』が、重要な作業とやらを妨害しようとしている。くらいに考えていたのだろう。


「ああ言ってるから、逃げたほうがいいんじゃないかな」

「ええ? どうかな──もうちょっと様子を見よう。何もおかしなことはないし」


 拙の兄弟。それが言っているのも、拙は聞かなかった。周りの大人に合わせたわけではないと思っていたが、結局のところはそうだったのであろう。


 それも強くは言わなかった。頭の回りは拙のほうが良いのは事実であったので、拙の言うことを優先することとしていた。


「ヌシら、言うことを聞かぬか! 拙はこのまま放っておいて良い! ヌシらが危ういと言っておるのだ!」


 そうやって騒いで、自由を手に入れようとしている。誰もがそんな風に考えていた。

 拙もそう思っていた。

 こんな見苦しい男が父親であるなど、冗談ではないとまで考えた。


「うるせえ、黙れ!」


 奴隷の一人が石を投げつけた。それは『傾げ男』の顔に当たったが、怪我はしていなかった。


 それをどう感じたのか、『傾げ男』は口を閉ざした。その代わりに、自身を繋いでいる鎖を引き千切ろうと、腕や脚を激しく動かした。


 『傾げ男』を移動させる時には、武器を持った兵士が何十人も待機する。その態勢があったからか、『傾げ男』が実際に暴れたことはないらしい。


 そんな中で厳重に打ち付けられる鎖は、相当の強度を持っていた。深く岩盤に刺さった大釘は、その衝撃を受けてもぴくりとさえしない。

 それには『傾げ男』も気付いたはずだが、暴れることをやめなかった。


 ものの一分ほどだろうか。手首ほどもあるのでは、という太い鎖が弾けて飛んだ。枷の付いている手足からは流血が夥しく、中でも右腕は折れて捥げかかっていた。


「ヌシら、これが最後ぞ。逃げねば死ぬ」


 睥睨する目と顔面の迫力に、暫し誰も言葉がなかった。しかし全員が集められているこの状況で『傾げ男』が逃走すれば、全員が同罪として罰を受けるだろう。

 それはこれまでに脱走を企てた者も少なからず居たのだから、すぐにそうと察しがついた。


「何を言っていやがる。勝手な真似をするんじゃねえ」


 気を取り直した誰かが言うと、他の者たちも似たような罵声を浴びせ始める。悪口雑言が石に変わるのは、すぐだった。

 鎖と一緒に自分の腕を引き千切るような男に、正面から立ち向かうことは難しくとも大勢で石を投げることは何とか出来たらしい。


 拙は迷っていた。

 どう見てもどちらがまともか明らかであるが、それは今だから言えること。今もものを知らぬ拙ではあるが、その時は一層にそうであった。


「やめてよ! 言うことを聞かなくてもいいよ! 石をぶつけなくてもいいじゃないか!」


 それは『傾げ男』の前に立ち塞がって、代わりに石を受けた。

 何かことをするのに「どうすればいいかな」と拙に相談しなかったのは、この時が初めてであった。


「良い。小僧、ヌシだけでも逃げよ。拙が連れ出してやる」


 それを抱きかかえて、助けてくれようとしている『傾げ男』。拙はこともあろうに、その前に立って殴りつけた。


「それは僕の──たった一人の兄弟なんだ! 連れていくんじゃない!」


 拙の拳は『傾げ男』の頬を捉えていた。ほんの少しでも、色が変わっていたであろうか。その程度だった。


「おお、ヌシが小僧の。話はよく聞いておるぞ」


 巨大な手が、拙の頭をごしごしと撫でた。そんな経験は初めてで、不快でしかなかった。

 しかし血塗れのその手が収められる時に、何とも言えぬもの悲しさも覚えた。


「ヌシが拙を信用せぬのは分かる。直接には、今知りあったばかりであるしな。だが今は時間がない。拙を信じよとは言わぬから、ヌシの兄弟を信じよ」


 焦りや怒りといった、負の感情は見えなかった。

 一旦は怯んだものの、またじりじりと取り囲もうとしている奴隷たちを左右にちらとみて、にやと笑う。


「さあ、どうする」


 『傾げ男』が言ったからではない。それがどうしたいのか、聞くのは当然であった。

 だから拙も、それに問う。「どうしたい?」と。


「逃げよう。一緒に」


 それがはっきりとそう言ったからには、拙ももう迷う理由がない。

 唯一持っていたのみを奴隷たちに突きつけて、『傾げ男』と並んで後退りした。


 いくらか距離を取ると、出口の方向に駆けた。振り返りもしなかったが、追ってくる音は聞こえなかった。


「がはっ! ぐふぁっ!」


 一息つこうと立ち止まったところで、拙は激しく咳き込んだ。喉がやけに涼しく、血の気が引いていくような感覚があった。


「これはもう間に合わぬな……」

「これが毒か!?」


 それほど濃い色ではなかったが、確かにその先には霧か煙かが充満しているようだった。

 どれほどの範囲に広がっているか知れなかったが、もしも出口までであれば果てしなく遠い。

 息を止めて走れるような距離では全くなかった。


「何もせずに死ぬよりは、ましであろうよ」


 『傾げ男』は着ている衣服を大きく裂いて、その布を丸めた物を二つ作った。

 それらは拙と、抱えられている兄弟とに手渡されたが、どうせよというのかさっぱりであった。


「鼻と口にな、ぎゅっと押し当てよ。なるべく息は止めておいて、どうしても吸いたければその布からそっと吸い出すようにな」

「あんたはどうするんだ」

「拙か? そうさな、今から作る。だからヌシは、拙の首に掴まっておれ」


 『傾げ男』は同じく布を丸めた物をもう一つ作って、自分の口に当てた。

 首に掴まれというのは、拙が走るよりも『傾げ男』に運んでもらったほうが速いからであった。


 毒の煙はどこから発生させているのか、進むごとに密度を増した。初めはふわりとしていたものが、終いには煙の流れで風を感じるほどであった。


 目にもしみてきたために、瞼を閉じざるを得なかった。『傾げ男』も同じであるはずだが、大丈夫かと口を開くことは出来なかったし、そんな問答をする暇もなかった。


 何度通ったか分からぬほどの坑道であるのに、まだ続くのかと気が滅入ってきた。目を閉じていたから、距離感も曖昧であったのだろう。

 なるべく考えぬようにはしていたが、四度目にまだかと考えた直後。肌に感じる空気が明らかに変わった。

 しかしまだ光は感じぬから、もう少しであろうと拙は耐えた。


 そこで何やら『傾げ男』の動きが荒ぶり始めた。

 いや、動きだけではない。周囲の空を切る音が聞こえて、矢を射掛けられているのが分かった。


 それからすぐに、瞼の裏さえも赤く染める光を感じた。拙はすぐに布を投げ捨て、外気を吸った。言われた通りになるべく息をしないでいたから、頭がくらくらとしていた。


 それに臭いでいえば、毒の煙よりも『傾げ男』の衣服のほうが万倍も臭かった。そんな物に鼻と口を突っ込んでいたのだから、その点だけは今でも文句を言いたいところだ。


「貴様ら、どこへ行く!」


 どこへかはともかく、逃げるに決まっている。強いて言えば、とりあえずは麓の方向であろう。


「危ういでな。まだしがみついておれよ」


 少し咳き込みながらも、『傾げ男』はしっかりした口調で言った。


 良かった。この男も大丈夫そうだ。

 そう思って覗いてみると、『傾げ男』は布を持っていなかった。揺れる背で振り返っても、地面に落ちているのは一枚だけだ。


 その時『傾げ男』の顎から、雫が落ちた。拙の腕に落ちたそれは、血であった。口から吐いたのであろうが、それが漏れぬように唇は固く結ばれていた。


 そこからまっすぐ、『傾げ男』は文字通りに兵士を踏み越えて逃走した。目の前に立ち塞がる者だけを、捥げかけた手首のぶらさがる腕で殴り倒していった。


 そうだ。この手で布を押さえていられるはずはなかったのだ。

 拙は、自分がとんでもない阿呆であると思い知った。


 追っ手を撒いて、麓の集落さえ越えたところで、ようやく拙たちは下ろされた。

 ずん。と、地響きを立てて、『傾げ男』は膝を突く。と思うとそのまま、手足を広げて倒れた。


「はっ──ははっ。さすがにもう動けぬ。ヌシらは強く生きよ」

「そんな……」


「拙のような男の朽ちるところなど、見物せずと良い。早く行け」

「い、いやだ! 一緒に行こう!」


 それは顔を赤くして、怒ったような顔で怒鳴った。

 無茶を言っていると、分からぬほどではないはずだ。

 恐らくは、恩を返す機会も与えずに死なれては困る。何より寂しい。そう言いたかったのであろう。


「ヌシ、頼む」


 拙は頷いた。もはや礼を言う暇もかけてはならぬ。

 親を知らずに産まれ、親を知らずに育った身だ。親の死だけを見届けるなど、酷ではないか。

 彼は彼で、未練が残る。

 拙はそう確信した。


「行こう」


 それの袖を強く引いて、たった一言を言った。それは拙の顔を見て何か言いたそうであったが、結局言わなかった。


 急ぐ理由など当然になかったが、拙は猛然と駆けた。それを引き摺るようになっても、止まらずに駆けた。


 それから拙らがレリクタに拾われるまで、さほどの時を必要としなかった。


「あそこに居た時には、子どもらしく遊ぶ時間もあったな」


 首都の外れにある墓地。此度の戦いで亡くなった者たちを葬ってある。

 トリバとセフテムの墓は、小さくとも立派な石碑が建てられた。ノーベンはまた埋葬し直さねばならぬので、木製の仮の墓標だ。


「あの頃は、今とまた違った意味で楽しかった。なあ、兄者」


 酒を知らぬ男に教えてやろうと、とびきりの品を持参した。それは墓標を濡らし、木目の中に吸われていく。

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