第293話:あの部屋の中

 西の港町アムニスからカテワルトへと戻る途中に、ボクはフラウの家に行った。


「気を、確かにお持ちください」


 そこに居た二人のメイドの一方。ニヒテさんの、忠告することさえつらそうな素振りに怖れを抱きながらも、ボクはフラウの部屋に入った。


 フラウに感じていた、何やら苛々とする感情も、落胆の気持ちも、それでも好きだという気持ちも、全てを一旦置いて、ボクは部屋に踏み入った。

 それが彼女の中に、そのまま土足で入っていくことと同じだと分かって、それでもそうしなければならない。でもそれはやはり、ボクの勝手な感情による都合に過ぎない。そんなことも明確に噛みしめながら、まじまじと見た。


「あれは――」


 まず思ったのは、薄気味の悪い部屋だということ。

 天井はそれほど背の高くないボクでもぎりぎり立っていられる高さで、間口は両手をいっぱいに広げるには僅かに足りない。

 左手と、奥の壁。そこに細い隙間がいくつかあって、そこから漏れる外光だけがこの部屋の明かりだった。いや足元に、蝋燭を一本だけ立てられる台がある。しかしそれがあったところで、この部屋が暗いという事実は変わらない。


 仮にも盗賊であるボクが、暗いことを理由に薄気味悪いなどとは言わない。そもそも暗かろうが、ボクの目には全てはっきり見えている。

 奥行きは十歩ほどもあるだろうか。

 左右の壁は板張りだったけれど、血を染み込ませたようにどす黒い。そこに釘か何かで引っ掻いた傷が、無数にあった。

 奥へ進もうとすると、やはり板の張られた床が鳴る。

 きゅ、と。夜鳴く鳥の寂し気な声のように、鬱々とした音が足を踏む度に耳に障った。


 傷をよく見ると、浅い物があればかなり深く彫られた物もある。これをフラウがやったのだとすると、あの細い腕でよくもと不思議なくらいだ。

 深い傷には無垢の色が見えて、それは明るい木の色だった。しかしそれにもまた上から何かを流したような、雫の垂れた跡で黒く汚れが目立つ。


 しばらく眺めて、どうやら文字だと気付いた。筆致は安定しなくて、どこからどこまでが一つの言葉なのかも分かりにくい。文字ではない単なる傷もあって、読み解くにはかなりの時間を必要としそうだった。


 そこで、じゃあいいやと諦める理由はない。むしろ具体的な情報が得られるものと期待さえ高まる。


 ほんの何文字か、判別出来たところだっただろう。まだ文章として何が書いてあるのか、予想もつかない段階だ。

 誰も居ないはずのその部屋に、ざわりとした気配を感じた。


 見回すまでもないような狭い部屋だけれど、それでも前と後ろ、右と左、上と下を見ずにはいられない。

 斑というのか、濃淡のある染みのような壁の色合い以外に、やはり目に止まるものはない。

 元より誰か潜んで来れるような場所でもない。


「何だ──?」


 気のせいだと思い込もうとした。暗い宙を見ていても、そこに何が湧き上がるでもない。

 そう念じて文字の判読に戻ろうとした時、それは姿を見せた。


 もぞもぞと蠢く人影。人の影でなく、人の形をした影そのもの。形を感じる影などありはしないだろうから、実際には影でもないのだろう。

 ともかく何だか分からないそれは、一人や二人でなく、大勢居た。


 数えることも可能な人数だったと思うけれど、それらはよく動く。ゆっくりとはしているけれど、一瞬たりともじっとしていない。

 それはボクを取り囲む。近寄ってきて、周りをくるくると回って、また飽きたように去っていく。こそこそ仲間と話すように固まったかと思うと、またボクの傍に寄ってくる。


 袋状に作って、手を差し込んで動かす人形。それが印象として近いかもしれない。

 忙しく、速く動き回るのではない。悪戯をする子どもが、生贄の背中にこっそり忍び寄る足取り。そんな感覚もあった。


 そうだ、子ども。

 ゆるゆる、ぬるぬるとした掴みどころのない動き。地に足を着けずに、浮いたようではあっても脚はある。

 脚を動かしているのではないから、走り回っているのとも違うのかもしれない。でもそれでいて、屈んでいるボクと目線の高さがあまり変わらなかった。


「ねえ──」


 ボクは何も言っていない。体を動かしてもいないから、物音も立てていない。


「ねえ、早く──」


 その動きは、子どもだからと考えているのもあって、一緒に遊ぼうと言っているのかと思った。

 でも確かにそうでもあるのだろうけれど、違うようでもある。


「お役目を──」

「私たちの役目──」

「果たすために僕は居る──」


 何なんだ。

 子どもっていうのは、遊びたくて、眠りたくて、お腹が空いて。そりゃあ我慢の出来る子も居るけれど、我慢をしているのが分かるものだろう。


 ここに居る子どもたちは、何をかやるべきことにしか興味がない。


「さあ、ボクと遊ぼう」


 そう言っても、不思議そうな顔で見返されるだけだ。


「やらなくちゃいけないの」

「そうするために居るの」

「お役目のために生きているの」


 笑ってはいる。楽しそうだ。

 でもこんなのは、表情じゃない。型で押された革細工のようなものだ。

 笑ったと思えば泣いて、そうかと思えば怒って、いきなり忘れてまた笑う。

 幼い子どもなんて、そんなものだ。


 それはみんな子どもがこうであれば、面倒をみる大人は楽かもしれない。

 でも、そうじゃないだろう。

 子どもって、そんなじゃないだろう。

 ここから大人に育つなんて、どんな人間になっていくんだ。

 こんな気持ちの悪い子どもなんて。


 まるで、ボクじゃないか。

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