第287話:敵わない

「で?」


 ぎらりと光っただけでなく、そう音もしたかのように思えた。

 負けてしまって、やろうとしたことは何一つ叶っていないのに、それを挽回する機会ももうないだろうに。

 見ていると、むしろ勝ったのは辺境伯で、ボクたちのほうがせめても温情をお願いしているのだったかとさえ思えてくる。


 いやまあ、勝ったのは王軍であって、ボクたちはそこにくっついていただけなのだけれど。


「ええと……あなたにはお願いしたいことと、言いたいこととがあります」


 視線を堂々と外して、辺境伯は立ち上がった。腕を使おうとしてうまくいかずに、イスタムとリリックに補助をされて。


「で?」


 また鋭い眼光が、ボクを捕えた。野獣が獲物を狙う時とはまた違う、魔獣が悪意を持って他者を襲う時に似ていた。


 ボクが話し始めたのを見て、サバンナさんがボクの脇に来てくれた。その場に座って、膝の上にフラウを寝かせる。

 辺境伯の目はその様子もじっくり眺めて、問うた。


「どうも意識がないようだが、俺にお願いとはその辺りの話か」

「はい、そうです」


 辺境伯の目がフラウに向いて、同情なのか何やら困ったような感情がそこに浮かぶ。

 この人が根っからの悪人ではないと思うのは、時にそういう表情を見せるからだ。


「俺に何が出来るか知らんが、何の話であれ、聞く気にはならんな」

「え……」

「もう忘れたのか。俺は実力を以てでしか、人の言い分を聞くことはない。それにお前は、俺を嵌めた実績もある」


 それは誤解だと「そんな──」と言いかけたけれどもやめた。

 辺境伯は左腕を突き出して、素手で戦う姿勢を取った。脇の二人には「訓練のようなものだ、殺しはしない」と言っている。


 力量の勝る相手を殺すのは、いくつかの幸運があれば可能になることも多い。でもそうでなく、例えば「まいった」と言わせなければならないとしたら、その難易度は跳ね上がる。


 だとしても、やらないわけにはいかないようだ。


「アビたん、その体じゃ無理みゅ」


 他の人たちは何も言わない。メイさんも一度そう言っただけで、ボクが答えずに構えてからは言わなかった。


 右腕──は、動く。胸の高さに上げているだけで、脇やら背中やら別の場所が痛むけれど。

 脚──も、まあ問題ない。ぶるぶる震えて、自由自在とはいかないけれど。


 まっすぐ突き出された辺境伯の拳が、見ているとどんどん大きくなっていくように思えた。

 足は少し開いているだけで棒立ちに近く、背筋も伸び切って動作が遅れるはずだ。

 それでも隙がない。

 向かい合っているのは人形だっただろうかと思うほど微動だにしないのに、ボクがどう向かっていっても通用しない妄想ばかりが先に立つ。


 辺境伯は右腕が使えないのだから、そちらに回り込むのが常套だろう。悩んでばかりいても仕方ないので、せめてもそう作戦を立てて近寄った。


 ゆっくり一歩ずつ歩いて、辺境伯が深く踏み込めば拳を当てられる距離まで行っても、まだ動かない。


 ボクが攻撃したのを捌くことで、実力差を見せつけようとでもいうのか?

 この期に及んでそういうことをする人でもない気はしたけれど、それくらいしか思いつかなかった。


 いや──待て。これは見え見えの弱点を利用した誘いだ。そんな当たり前のことに、対処を用意していないとでも思っているのか。そういう落ちだ。

 となれば、ボクの得意な分野で何とかするしかない。


 ボクは重心を右にかけて、一気に戻す反動を利用して左に跳んだ。

 これで辺境伯からは、案の定で右腕側を攻めてきたと見える。実際にその位置から、蹴りと見せかけた足払いも仕掛けた。


 でもそれもフェイントだ。足払いがかかれば良かったのだけれど、予想通りに失敗した。だからそれは、軸足にして跳ぶための予備動作だ。

 腰のナイフを抜いて、峰の側を喉に押し付ける。


 って──成功してしまった。

 辺境伯は伸ばしていた腕を縮めて、ナイフを握ったボクの手を掴んだ。


「刃を当てていれば、あなたは死んでいますよ」

「何が刃を当てていればだ。現に当てていないだろうが。それにそういう小細工は、まともに動ける時にするんだな」


 辺境伯の腕はボクを宙吊りにして、膝を腹に叩き込んでくれた。おかげでろくに中身もない胃から、根こそぎ吐き出す羽目になる。


「刃がどちらを向いているかも見分けられんと思っているのか? 馬鹿にするのも大概にしろ」


 吐き気と痛みでそれどころではないボクの手から、辺境伯はナイフを奪い取る。


「いいナイフだ。もっとしっかり手入れをしろ」


 顔を上げると、ナイフを放り投げて弄ぶ姿。二度、三度とくるくる回って、また辺境伯の手に戻る。


 そのうちに、一瞬だけ辺境伯の視線があらぬ方向を向いた。


 背筋が凍りつくような悪寒を感じて、考える前にボクの体はそちらへ向かっていた。

 後ろへ逸らさないように、軌道はこの辺りだという範囲を体で塞いで右手を出す。

 タイミングはぴたりと合って、ナイフの刃はボクの手の中に収まった。


「お前に足らんのは、そういうところだ」


 辺境伯はイスタムたちのところへ戻って、ごろりと横になる。疲れたから寝るとしよう、なんてことを確か言っただろうか。

 ボクはまだ寒気が収まらなくて震える体を、無理に動かして後ろを見た。そこにはフラウが居る。


「考えてみれば、ここに王軍を呼んだのはお前だったな。つまりそもそもは、お前にしてやられたわけだ」


 目を瞑ったまま、辺境伯はあくび混じりに言う。


「俺は北の塔に入れられるそうだ。用があるなら、そこへ来い」


 ボクの返事を待つなんてするはずもなく、辺境伯は小さないびきをかいて眠ってしまった。


 そこでようやくナイフを握ったままだったことに気付いて、地面に落とした。傷は大したことはない。


 辺境伯が投げたのでなくとも、投げられるナイフの軌道を正確に読むなんてボクには出来ない。

 ましてやその咄嗟の動きの中で掴み取るなんて、偶然以外で出来るわけがない。


 あのナイフは最初からフラウではなく、ボクが手を出す場所を狙って投げられたのだ。その事実に、ボクは「まいった……」としか言えなかった。

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