第273話:口を開く条件
「一体、何の用だ。と、聞きたいところではあるが──」
辺境伯は前置いて、重心を傾けた右足を前に出し、右手だけで剣を構える。
いや。構えたと言えば聞こえはいいけれど、手に剣を持っているだけであって「ほら来てみろ」と安い挑発をしているのは歴然だった。
「誰にでも言いたいことはあるだろうがな。それを口にするには条件というものがある」
「条件?」
ミリア隊長たちの護衛をすり抜けてボクに向かってくる相手も居るので、ナイフはずっと握ったままだ。
しかしどこに向けてでも対応のし易いお腹の前に構えていて、辺境伯に向けてはいない。
挑発に乗らないにしても、警戒をする素振りさえ見せなかったことに腹を立てたのかもしれない。
辺境伯は腰のベルトに挿してある、小さなナイフを投げつけてきた。
それは抜く動作と投げる動作がひと続きで、うっかりしていればベルトを撫でただけのようにも見えた。
「くぅっ!」
視線から恐らくそうだも判断をつけたのだけれど、ナイフでナイフを受けることにはぎりぎりで間に合った。
その軌道は正確に、ボクの首を狙っていた。
たぶん視線はボクを甘く見て、ヒントをくれたのだと思う。
あんな投げを出来る人が、馬鹿正直に狙っているところを見るはずがない。
話していて無意味に首すじや腰回りに手を持っていく奴が居たら気を付けろ、とトンちゃんが以前に教えてくれていたのだけれど、それがなかったら危うかった。
「人にはそれぞれ、自分の自由に出来るものがある。気に入らんからと、壊すことの出来るものがな」
「そりゃあ、苛々して物に当たることもあるでしょうけど……」
自分の言いたいこと。気分によって物を壊してしまうこと。辺境伯が何を言いたいのか、さっぱり分からない。
そこでまた、今度は手にしている剣で直接に切りつけてくる。
さすがに間合いの遠く外からだったし、それ以上に本人も当てる気はそれほどなかったのだろう。避けることが出来た。
「お前だったら何だろうな。カップを叩きつけるのは簡単だろうし、町の近くに居る野獣くらいなら腹いせに殺すことも出来るか」
「やろうと思えば出来るでしょうね。しませんけど」
「本当か? 生まれてこの方、一度もしたことはないか?」
それは、ある。
幼いころに、使用人の気を引きたくて壺やらを何度か壊した。
でもそれが何だっていうんだ。
「あるようだな。そんな不満そうな顔をするな。俺が責めようというんじゃない」
「不満なんて」
そんなつもりはなかったけれど、知らないうちに顔に出ていたのか、鎌をかけられたのか。
「物だか命だか知らんが、そいつが口を利けたなら、やめてくれと言っただろうな」
「……まあ、そうかもしれませんが」
そうか──ユヴァ王女のことを言っているのか。でも可哀そうだという話にしては、向きが違う。
「例えば俺が、こうしたとする!」
間合いから二歩外れた場所から、突きが放たれた。さっきとは速度が違う。腕をかすって、痛いと思ってからどこに向けられていたのかがようやく分かった。
「次はこう! 次はここ! それからここもだ!」
突く度に、辺境伯はそんなことを言っていた。でもどれ一つとして、ボクは反応さえも出来ない。
腕や脚。顔にも脇腹にも、小さな傷が増えていく。
「どうしたって──言うんです!」
三十回も突かれただろうか。二拍ほども長い間があったので、言葉を絞り出した。それも次の突きで、最後まで言えなかったかもしれないが。
「まだ反抗心を出せるようだが、どうにもならんだろう?」
「ええ。あなたと戦ったって、万に一つも勝てませんからね」
「お前には教えてやったはずだ。力を身に着けろと!」
まっすぐな前蹴りが腹に入って、息が詰まる。呻き声さえも出なかった。
「痛いだろう? お前はここで、もうやめてくれと言うのかもしれない。それともまだ、十回ほども蹴ってやらねば言わんのかもしれない」
「ぐ……」
治っていない怪我が、ボクの意識を刈り取ろうとする。でもこの人の前でそれは駄目だ。
どんな形であれ、自分を失っては駄目だ。
「しかしお前がいつそれを言ったとしても、聞き入れるかどうかは俺の自由だ。聞き入れずに致命傷を与えるのもな」
蹲ったボクの顔が、蹴り上げられる。
すぐ目の前に血の臭いがして、視界はくらくらと震えて歪む。でも遠くなったり近くなったりしていた意識は、逆にはっきりした。
「力を持った人間は、自分より弱い人間の頼みを聞かなくて良いのだ。そんな単純なことを、どうやらお前も知らなかったらしい。しかし俺は、十年前に教えてもらった!」
剣を握ったままの右手が、縮こまって痛みに耐えるボクの後頭部に叩きつけられた。
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