第274話:メイとトンちゃん

 これを視界と呼んでいいのか、真っ黒な中に赤い渦が畝って、火花を散らしたような光が明滅する。

 意識は完全に喪失する寸前で踏みとどまっている。強く殴られたことで、こんな景色が見えているんだろう。


 朦朧としながら少しずつ正常に戻っていく感覚の中で、自分の今の状況を繋げていく。


 辺境伯に殴られて──これは地面の感触。そうか、うつ伏せに倒れている。

 ああ、何だか耳もおかしい。水に潜ったようにくぐもって、きいきいと何かを引っ掻くような耳障りな音がする。


「──に用がある──こいつじゃ──のか」


 これは辺境伯の声。何とか聞こえるようになってきた。誰かと話しているのか?


「ウチのとこの下っ端に、何してくれてるみゃ。お前、ぶち殺すみゃ」


 トン……ちゃん?

 何だかすごく怒っている。どうしたんだろう。

 姿が見えれば──いやボクは目を閉じたままじゃないか。それは見えるはずがない。


 開いた目の前には、誰かの脚があった。ええと、トンちゃんだ。

 体はまだ言うことを聞かなかったので、何とか視線だけを向ける。

 彼女は酷く興奮したように肩を上下させて、鼻息も荒い。両手の爪は長く伸ばされて、胸の前でわなわなと震えている。


 爪には血が付いているらしい。視線を移動させると、辺境伯が左腕に傷を負っている。

 致命傷には遠いけれど、浅い傷でもない。


「俺の邪魔をするというなら、誰であろうと叩き潰すまでだ。そいつは当分、動けんだろうしな。余興は終わりということでいいのか?」

「うるさいみゃ。あんたがどう考えていようと、ウチは知らんみゃ。ウチはお前が気に入らないだけみゃ!」

「気が合うな──」


 薄く笑った辺境伯が地面に向けていた剣を構え直すと、トンちゃんは構えも何もなく地面を蹴った。

 彼女の本気なら、辺境伯にはその動きを捉えることが出来ないかもしれない。


 が、思わぬ横槍が入った。


「駄目みゅ!」

「ぐっ!」


 まっすぐ跳んだと見せかけて、トンちゃんはすぐに着地していた。それからまたすぐに、自分の体の幅と同じだけ方向をずらして跳んだ。

 いわゆるフェイントだけれど、たぶんトンちゃんはそうしようと思ってしたのではない。


 相手の攻撃を躱したり、惑わせたりするのにどうやればいいのか聞いたことがある。その時彼女は「何となく思いつくというか、思いついた時には体が動いてるみゃ?」と言っていた。

 人には説明できない経験が、体に染み込んでいるらしい。


 そんな野生に近い動きを止めたのは、メイさんだ。


「メイ! 何する──」

「リマっちはアビたんが相手をしないといけないから、我慢しろって言ったのはトンちゃんみゅ!!」


 空中で絡み合って墜落した格好のまま。非難しようとしたトンちゃんに、メイさんが食ってかかる。

 そんな会話があったのだろう。トンちゃんはまだ怒りで表情を歪ませてはいたけれど、次の言葉を言えなくなった。


 その様子を見ていた辺境伯は鼻から息を吹き出して、元の姿勢に戻る。


「茶番は終わったか? おんな子どもの遊びに付き合っている暇はない。失せろ」


 たぶん半包囲は、もう崩れかかっているだろう。しかし逆に言えば、まだいくらかの囲みが残っているはずだ。

 その中を辺境伯は悠々と背中を向け、王軍と対している正面に歩こうとした。


「メイは女だけど、子どもじゃないみゅ!」

「ほう、そうか。ではどうする?」


 律儀に足を止めて、でも顔は向けずに言った。

 どうすると問われても、メイさんは手伝ってくれているだけで当事者ではないし、辺境伯と直接に争うつもりもないらしい。

 返事が出来なかった。


「俺の相手はしないのだろう? それがガキの茶番だと言うのだ。実力を以て黙らせる以外に、俺をどうこうする術はない」

「メイは……お母ちゃんと別れて、だんちょおのお手伝いをしてるみゅ」

「うん?」


 何の話を始めたのか。ボクが驚くくらいだから、辺境伯には皆目見当がつかなかっただろう。

 いきなりここでメイさんのお母ちゃんの話なんて、でもたぶん直接の関係はない。


「メイはお母ちゃんと約束したみゅ。燃えてなくなるお家の中で、下敷きになったお母ちゃんと約束したみゅ! メイはもう大人だから、だんちょおに着いていってお手伝いするって約束したみゅ!」


 そんなことがあったのか……。

 お母ちゃんの話は何度も聞いているけれど、今のは初耳だった。


「そうか。ならばお前も、その爪でかかってくるがいい。それが出来んのなら、お前もお前の母親も俺に何の影響を与えることもない。言ってしまえば、その辺を舞っている塵みたいなものだ」

「メイのお母ちゃんは、塵じゃないみゅ!」


 馬鹿でかい声で、メイさんは言い張る。びりびりとボクの体も震わせるほどの音量は、それだけで人を薙ぎ倒せそうなほどにも思えた。

 まあ確かにその姿を見て、大人びているとは言い難い。けれどもメイさんが、お母ちゃんにどれだけの思いを持っているのか。慮るには十分だ。


「ああ、分かった。そう喚くな、癇に障る」

「分かってくれたかみゅ?」

「ああ」


 分かったと言われて、メイさんは素直に喜んだ。

 それは彼女の美徳。ボクはきっと、メイさんのそんなところを見習わなければいけないのだろう。

 でも今の会話は、違う。


「お前の母親が、娘の躾も碌に出来ない屑だということがな」

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