第197話:雨に打たれて
「そのままで構わん。視界だけ、邪魔してくれなければな」
兵士から辺境伯へと姿を変えた男は言った。
それはボクたちを含む、応急手当てを含む雑務を行っている兵士全員に言ったようだった。
突然に現れたその男に、周囲の兵士も側近の二人も膝を突いていたからだ。
幸いなことに、ボクはもともと治療行為のために膝を突いていたので、呆然としていても怪しまれなかった。
手近な石にどっかりと腰を下ろした男に、イスタムとリリックは付き従う。
お互いに聞こえる程度に話しているので内容は聞こえないけれど、その合間にある動作は、主君に対する儀礼としか見えなかった。
どういうからくりだか分からないけれど、あの兵士が辺境伯になった――いや、入れ替わったのか?
ともかくこれは、そこに辺境伯本人が居るということで間違いないようだ。
辺境伯が座ったのは、フラウにほど近い位置。具体的には、長槍が二本ほどの距離。
他の兵士だけでも動きが取れなかったのに、これではどうすることもできない。
「最高指揮官がこれほど後方に居るとは、勝とうという気がないですね」
「そうなるんです?」
治療を続けながら、ミリア隊長はぼそぼそと言った。目の前に居る怪我人は意識を失っているようなので、聞かれる心配はない。
「ここでは前線の動きなんて、全く分かりません。よほど信頼の置ける中間の指揮官でも居るなら別ですが、そうは見えません」
「そうだねえ。やっぱりアビたんの言う通り、待ってるんじゃないのお」
ボクたちの居るのがばれていて、欺瞞をしているのか?
という疑いを、一瞬だけボクは持った。
けれどもそんな馬鹿なことはない。辺境伯がボクたちを恐れる必要もなければ、利用する価値もない。気付いているのなら、すぐに正体を暴いて殺せばいいのだ。
きっと二人の言うことが正解か、それに近いのだと思う。
カン。と、金属を打つ軽い音がした。
なんだ? と音の所在を探す暇もない。その音は続けて鳴り始め、すぐに豪雨のようになった。
「避難を!」
「でもこの人が!」
音は、数限りなく飛来する矢によるものだった。
どうして今かな――とタイミングの悪さに色々思いもするけれど、ボクが頼んだことだ。言っていく先はない。
自業自得のボクはそれで納得するしかないとしても、目の前に横たわる怪我人はどうするのか。
焦るばかりのボクに、盾が差し出される。
「これで受けるといいよお」
コニーさんが近くに転がっていた盾を二つ拾ってきて、一つをボクに与えてくれたのだった。
それを使って、怪我人とボクたち三人の身を守る。
ボクたちがそうこうしている間、周囲も慌ただしかった。
それまで陣としての号令など飛んでいなかったボクたちの周りに、大盾を持った兵士が集められる。
「大盾、用意! 上に、構え!」
この辺りに居る兵士の隊長だろう。辺境伯やフラウを重点的に、矢に対する防御が指示された。
何千か、それ以上かも分からない数の矢が降り注ぐ光景は、恐ろしくも不思議なものだ。
雨や雪のような天から降ってきて当たり前でない、人工の物体が降ってくるのは、頭の中が勝手に軽い混乱を起こしている。
想定していた通り、矢が降り注いでいる間は誰もが動きを制限された。その前にはごちゃごちゃと入り乱れた。
大盾を用意するまでの間に、倒れた兵士もたくさん居る。
このどさくさがあれば、フラウを連れ出すこともできたのに……。
「あれは近すぎる。押し返せ」
矢の雨が一旦やんで、辺境伯はすぐにそう指示を出した。伝令の兵が、すぐにそちらの方向へ駆けていく。
「盾はしばらく、そのまま準備しておけ」
フラウを守る兵士たちに言いつけると、辺境伯は腰を上げた。好機は逃してしまったけれど、どこかに行ってくれるのは有難い。
という思惑を裏切って、辺境伯はボクたちのほうにまっすぐ向かって来る。
いや――たまたまということもある。気付いたとは限らない。
そう思ってミリア隊長を見ると、彼女も意識を辺境伯に向けているのがありありと分かった。
佩いている剣の柄に手を伸ばすべきか、その手が迷いを示してもいた。
「やれやれ、しつこいことだ。生憎と、その勇ましくも可愛らしいキトンのような声はよく覚えているぞ」
期待は脆くも崩れ去った。
顔を伏せていても、その視界にさえ入ってくる辺境伯の足。頭の上から降ってくる声。どう勘違いしても、ボク以外の誰かに言っているはずはない。
まだだ。
辺境伯は、ずっとボクたちを見ていたわけじゃない。ミリア隊長とコニーさんには、気付いていないかもしれない。
そう思うと、あとのことなんて何も考えずに立ち上がることができた。辺境伯の目を見返して、思うことをぶつけることにも躊躇いはなかった。
「フラウを返してもらいに来た」
「構わんよ。出来るなら、な」
それ以上に語る言葉は、お互いに持たなかった。
これ以上に言いたいことはボクにはなかったし、そのボクを意に介さない立場である辺境伯が、あれこれと言う必要はない。
贅沢にも、イスタムとリリックがボクの両脇を抱えた。
ことごとく舐められているのだろう。腰のナイフさえ取り上げられず、ボクは引きずられる。
「そこの二人も忘れずにな」
背中を見せつつ言った辺境伯の言葉が、ボクの淡い期待さえ打ち砕いた。
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