第186話:ブラムーあの日の記憶
城内の礼拝堂。その控えの間に、ユヴァの遺体は安置された。
今日からは結婚に向けた様々な儀式を行う予定だった者に、それが秘せるはずもなく。
ただ、急死したとだけが伝えられた。
「どういうことだ……なんだこの変わり果てた様は」
「何とも、お気の毒なことにございます」
礼拝堂の管理を任されている司祭の言葉が、ブラムの癇に障った。
昼食の前ころになって、妻となる人の急な死が告げられた。
はっきりと聞こえているのに何度も聞き返さねばならなくて、何度繰り返しても答えが変わらないことに最初の絶望を味わった。
対面を望んでも中々叶わなくて、そろそろ日も沈もうかという今、やっと会うことが出来た。
急に死んだということは、臓物に異常でもあったのかもしれない。それなら苦しかっただろう。
表情が苦しげなものであれば、今からでも慰めてやりたい。
そう考えて、無理矢理に自分を納得させて、自分は怒っているのか、悲しんでいるのか、それをどこに向ければいいのか。
歩き方さえも忘れてしまいそうな、呆然とした意識を奮い起こして、やっと顔を合わせたのだ。
「気の毒、だと? 気を迷わせれば、こうなると言うのか? 尋常に死んだ者がこうなったのを、お前は見たことがあるのか!?」
「あ、いや……」
北の国境は、東以上に小競り合いが絶えない。
二十歳を超えたばかりのブラムだが、規模を問わなければ数多くの戦場に出ている。
もちろんその中で死ぬ者も居て、いくつの死体を見てきたかは分からないくらいだった。
剣や矢で死ぬ者が最も多かったが、罠にかかったり毒を使われる者も居た。
「見ろ! その目で! こいつの顔を! 俺の妻の顔を!」
神官同士の上下関係はあっても、神官が世間的にどの位置にあるのかという身分はない。
貴族が王に連なる者であるなら、神官は神に連なる者だ。
そういう意識は誰しも持っていて、それならば丁重な対応をせねばなるまい、というのが普通の考え方ではあっただろう。
その神官の、ブラムより相当に年長の司祭の襟元を鷲掴みにして、体を強く揺すった。
呼吸の出来ない司祭の顔が赤く腫れていくのは見えていたが、白目を剥くまで手を離すことが出来なかった。
「出ていけ」
「は……?」
「出ていけと言った。しばらく二人にさせてくれ」
控えの間に、それほどの広さはない。郊外でたまに見かける、農具小屋くらいだろう。
その中でどんなに声を潜めたとしても、全ては司祭に聞こえてしまう。
そうでなくとも、その姿が視界に入ってしまう。
教えによれば、神官は半分ほど人間を脱したということになっている。
だからどんなに高位の貴族がどんな話をするのでも、存在を気にする必要はない。
例えば王女が全裸になって身を清める際にも、神官は男女を問わずにその場に居るのだ。
「俺はこれから、妻に最期の別れをする。そこに俺と妻以外が居ることなど許さん」
「し、しかしここには、常に神が御座します。さすれば私が居るのも当然で、私は神の一部──」
「今この時だけは、誰であっても許さんと言っている。いいか、誰であっても──だ」
爆発的な感情を抑えていることは、司祭にも分かっただろう。
この問答をあと数秒も続けていては、自身の命が危ないと気付かせるには十分なほど。
「わた、私は用を果たさねばならぬのでした。少々席を外すことに──」
「俺が決めたんだ。俺が、神もろともお前に出ていけと言っている」
自分でも意味のない意地の張り方だとは思っていた。
しかし自身の命という、最低限で最大の権利を踏み躙られたユヴァの姿を見て、そうとしか出来なかった。
彼女の時間を、彼女のために使う時間を、どうしてこれ以上に他人に譲ってやらねばならないのか。
「神を侮辱しては、後悔されますぞ……」
捨てゼリフを残して、司祭は出ていった。律儀に扉を静かに閉めていったのは、訓練の賜物だろう。
感情に勝るほどの行動を促す神殿の指導に、軽蔑と怖気を覚えた。
「もはや神と糞の区別もつかんな──」
礼拝堂を設けてあるすぐ近くで、ユヴァはこうなったのだ。恩恵も罰も、知れたものだ。
「ユヴァ……」
横たわっている寝台の脇に立って、妻──になれなかった女性の名を呼んだ。
途端、流れ落ちる音が轟々と聞こえそうに思うほど、涙が溢れ出た。
「ユヴァ──ユヴァ──」
嗚咽の合間に、名を呼び続けた。
どうして死んだのか、なぜこんな有り様なのか。そんなことはさておいて、ただ寂しさに泣いた。
もっと触れ合いたかったのに。
もっと色んな場所に連れても行きたかったのに。
永遠に一緒に居たいくらいだったのに。
ユヴァの不遇を、ある程度には知っていた。だからまた楽しく暮らせる場所を、与えてやりたかった。
彼女の故郷は、リマデス辺境伯の領地に組み込まれている。
望むなら、そこへ赴いて懐かしむことも出来たのに。
泣き続けて、希望を叶えられなかったことを悔やんで、死なせてしまったことを詫びた。
「城から連れ出せば、うまくいくと思い込んでいた……。それまでを耐えればいいとお前を我慢させた……。俺が、間違っていた……!」
ユヴァがブラムに語ってくれるのは、概ね良いことばかりだった。
ちょっと擦り傷があるとか、そういう細かい点に気付いて、問い詰めて、ようやく聞いた話でさえどれほど真実に近かったのか。
半分ほども聞けているかと思っていたが、全然だったらしい。俺はとんでもない道化者だ。
あと少しだったのに、どうして耐えてくれなかったのか。
そんな風にユヴァを責める気持ちはまったくなかった。
弱いことに罪はない。それを守れなかった人間にこそ罪がある。
「俺は、この罪を背負って生きるぞ。せめてお前の無念を晴らすためにな」
ブラムの心に、深く、深く、重い楔が打ち込まれた。それが彼自身の、生きる理由になった。
ようやく涙も拭いきれるようになって、ブラムはユヴァの姿を観察し始めた。
王族の死に装束である白いローブを纏っているだけだったから、体のどこを見るにも苦はなかった。
やはり最も目立つのは、顔や首筋にあるまだらの変色だ。
どう考えても毒物に冒されたとしか見えないそれは、口や目の周りの色が特に濃い。
それが太い血管に沿うように、額や胸の辺りで薄くなっている。
擦過は体中にあった。腕や脚には、打撲の跡もあった。何があったのかこれ以上にない痕跡として、膣には精液が残っていた。
毒を用いられている時点で、それは予想していた。
それでももちろんショックを受けたが、彼女に何が起きたのか冷静に見なければならないと、自分を落ち着かせる余裕はできた。
最後に喉。
厳重に巻かれた包帯を外すと、目を背けたくなる光景があった。実際にブラムも何度か瞬きを多くすることで、何とかそれを堪えていた。戦場で似たような傷を見たことはあるが、それが愛する者の体にあるのは耐え難い。
そこを形作るはずの肉が、ぐずぐずに潰れている。太い血管が切れて、多くの血液が流れた痕跡がある。
焼いた土だろうか。細かな欠片や土埃を練ったような物が付着している。
ユヴァは壺の欠片で喉を突いての自死だと、礼拝堂に着いて最初に聞いていた。傷口は確かにその通りだ。
……しかし。
焼いた土くれで喉を突くなど、自分が死ぬまでそれを行うなど、ブラムには到底想像出来なかった。
いや誰かに体を操られたとでもいうのでなければ、それは実際に行われたのだろう。それは間違いない。
表面を薄く傷付けるだけならともかく。喉が破れるほどそうするには、痛みなど無視して何度も打ちつけ、抉りだすようにしなければならない。
拷問で腕や脚にそういったことをする例はある。しかしこれだけの傷を作る前に、太い血管に辿りつく前に、多くはショック死してしまう。
そんな行為だと知ってはいなかっただろう。でも自分で考えついて、選択するだろうか。
──有り得ない。
ユヴァは狂気に堕ちた。
自分を襲ったあまりの事態に、相手を呪って、自身をも汚らわしく思って死んだのだ。
「分かった。お前の呪詛は、俺が必ず果たしてやる。だからしばらく、そっちで待っていてくれ……」
それからまたしばらくの時間をそこで過ごし、礼拝堂を出ると物陰に司祭が居た。
司祭は今日一日をこの礼拝堂で務めるとなっているのだろうから、追い出されているところを見られるのはよろしくないのだ。
「気は済みましたかな」
精々が尊大に振る舞って近寄ってきた司祭は、ブラムの顔を見て「ひいっ」と声を上げた。
無理はないだろう。
ブラムの口を中心に、顔から腕からあちこちが血に染まっていた。
「そ、そ、そのお顔は!?」
「包帯が解けてしまいました。直したのですが、不器用なものでこの有り様に」
先ほどとは違っていつもの様子に戻ったことで、司祭は緊張を緩めたらしい。顔にほっとした表情が浮かんだ。
「左様ですか。しかし──」
「妻の死を目の当たりにして、気が動転しておりました。図々しい申し出とは思いますが、ご容赦いただければ有り難い」
さっきの態度はなんだ、神殿を通して文句を言ってやる。恐らくそんなことを言おうとしたのだろう。
しかしそれに先んじてブラムが謝ったことで、司祭は言葉を飲みこんだ。
「ほう、それで?」
「今は手元に何もありませんので、国元に戻ったのち、寄付をあなた宛てに届けましょう。この礼拝堂の運用にお役立てください」
「それはそれは」
司祭は顔を綻ばせた。
寄付は本来、その地区の本部になっている神殿に送るものだ。必ずどこそこに使ってほしいというなら、手紙を添えれば良い。
しかしこの場合は、賄賂である。潔癖な神官であればそれこそ問題になるが、この司祭は受け取る側のようだ。
「私も神に仕える身ですから、あなたの悲しみは痛いほどに分かります。謝罪も必要ないと思っていたのですが、言っていただいたものには感謝致しましょう」
「寛大な言葉を有難うございます」
この出来事のあと、諸々の処置と措置がされて事態は収まった。
病による、ユヴァ王女の急死。王女が質素を好んだことから、葬儀は至極小規模に。新たに作られるはずだった公爵家は、結婚と共になかったことに。
決定的な事実は公表されるわけもなく、むしろ秘する形だった。妻となる人物が亡くなった以上は仕方がない、という事実だけで押し通された。
この取り扱いに、リマデス辺境伯家もブラム自身も何も言わなかった。粛々と、あてがわれる役割を果たすだけだった。
ユヴァの葬儀から、ちょうど一年後。
ブラムは僅かな供だけを連れて、また首都を訪れていた。
「娘のためにわざわざ──あなたの面子も潰してしまいましたのに」
「いえ。王妃殿下は、私の母になられる予定だったのです。その様子が気になるのは、当然でございましょう」
ユヴァの母、ソーレンも一年間の喪に服し、ようやく明けたばかりだった。
王が歳を取ってからの後妻であることもあって、喪が明けたからと千客万来とはなっていないらしい。
「嬉しいことですね。けれども私は、まだ笑うことが出来ないの。言葉だけになってしまうのを、許してもらえるかしら」
「何の、それは私も同様です」
応接室の広いテーブルを挟んで、まだまだ見た目には若い王妃と、実際に若いブラムは顔を見合わせた。
互いに苦笑めいた表情がある。
少し違うのは、王妃のそれは泣き出しそうで、ブラムは難しげに唇を噛んでいるところだ。
「ただ」
そうブラムは切り出した。
ここで聞き出さなければならない。そのために、あの日の感情を全て耐えたのだ。
「俺が笑えないのは、悲しみや寂しさだけではありませんが」
言って、王妃の斜め後ろに控えている侍女をちらと見た。王妃は気付いただろうか。
「そうね。私もあれこれと考えてしまいます。あの子のことを思うと──うっ──」
それが芝居だったのか本当だったのか、その部分だけはあとになっても分からなかった。
しかしそれをきっかけに近寄ってきた侍女に対して、王妃は言った。
「あの子のことを愛していた者同士、思うところを語り合いたいの。きっとみっともないことになると思うわ」
だからしばらく席を外せと。
仮にブラムが王妃に危害を加えようとしても、侍女が居たところでどうにもならない。
その備えとしては、隣室で耳をそばだてている騎士が居る。
もしも一年前にブラムが感情をそのままに暴れたりしていれば、この態勢での会談は出来なかっただろう。
ブラムは狙い通りだと安堵すると共に、そうして話したいことがやはり王妃にもあるのだと知った。
「さて、何から話しましょうか」
「俺が復讐を果たすのに必要な、全てをです」
王妃は死んでいるユヴァのところへ行っていた。そこで見聞き出来ることも、概ね知っているらしかった。
その上で黙らされていることも聞いた。
「ソーレンさま。あなたは私の第二の母上だ。ユヴァのことは全て、俺に任せていただきたい」
「任せましょう。必ず──必ず、あの子の無念を……」
その日からブラムは、ユヴァの恨みを晴らすことだけを考えて日々を過ごした。
ブラムがレリクタのことを知るのは、それからもう少しあとのことだった。
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