第185話:ユヴァーあの日の記憶
「ソーレン王妃殿下。そのような勝手をされては困ります」
「眠る前のひと時、私が腹を痛めて産んだ子と一緒に居るのは、そんなに悪いこと?」
「良い悪いではありません。決まった通りにしていただかなければ、下の者がどうして良いか分からないと申しております」
部屋の入り口の扉を開けて、そこからは一歩も入ってこようとしない騎士。顔にはやれやれ困ったことだと、わざとらしいまでの表情が浮かんでいる。
婚姻の儀まで、一カ月となった日。ユヴァは母親の私室に居た。
リマデス辺境伯家のブラムは兄のように優しく、城の庭の中ではあっても引きずりまわして楽しませてくれる。
家同士の話よりも先に結婚を口にされた時は、天に舞い上がる気持ちになったものだ。
だから結婚することに不満はない。母と離れることを除けば、早くそうなりたい気持ちしかなかった。
しかしそれとは別に、言いようのない不安があった。
これまでそれは一人で耐えてきたが、今日はどうしても耐えられなかった。
その気持ちを母に聞いてもらおうと部屋を訪ね、少し話したところで見つかってしまった。
明日から一カ月かけての儀式が始まる。
その間はずっとブラムや神官と一緒に、あれこれと手順を踏まなければならない。睡眠にだって決まった方法があるのだ。
それもあって、ベッドに腰かけた母親に甘えてもいたのに。
「ほんの少しだけ。あなた、これから巡回をするんでしょう? もう一度ここに戻ってくるまででいいわ」
ユヴァを見つけたのは、巡回の騎士だった。話し声が部屋の外にまで漏れていたらしく、聞き咎められてしまった。
「それは出来ません。もしもそうしてしまいますと、私はこの城に居れなくなります」
「そうなの……」
言いようのない不安。
それは正確には、言えるはずのない不安だった。
普段から感じているそれは、目に見える形でもそうでなくとも、様々にユヴァを困らせている。
しかし今日は、それがない。
たまたまだろうかとも思ったが、ユヴァがこの城に一人で居る最後の夜を逃すものだろうか。
普段は実際に肌で感じている不安が、今日は何が起こるのか分からないという、正に言いようのない不安として襲ってきていた。
しかしそれはあくまで予感であって、想像とか妄想だと言われればそれまでだ。
そのことだけをして、自分の首がかかっているとまで言う騎士に意見を押し通すことは、ユヴァには出来なかった。
「ユヴァ。あなたが新しい家を作れば、私が王妃として挨拶に行く機会も増えるでしょう。それまでの辛抱よ」
「――分かったわ、お母さん」
幼いころは、母と野山で山菜採りなんかをしていたのに。家にはそもそも部屋なんてものはなくて、父とも母とも隣り合って寝ていたのに。家族とも集落の人たちとも、いいことも悪いこともみんなで分け合ってきたのに。
ここでは、どれ一つとして出来ない。
今日は何だか不安だから、一緒に寝てもいい? って、それだけなのよ。私にはそれさえも許されないの?
それを口に出してしまえば、今度は母が困った顔をしてしまう。ユヴァにはそれが嫌だった。
「お部屋まで、お送りしましょう」
「頼みますね」
母の言葉を背中で聞いて、部屋を辞した。
自室に向かって歩いて行くと、部屋の扉が閉まる音がして、母との絆がそこで切れてしまったような気にさえなってしまった。
「ふう……」
「お加減でも?」
歩きながら声に出してため息を吐くと、追いついてきた騎士が尋ねる。
あなたのせいよ。とも言えず「疲れているのかも」と、ごまかした。
「それでは早くお戻りになって、ゆっくり休まれるのが良いですね」
「そうね、ありがとう」
王族の居室のある層を巡回する騎士には、全て見覚えがある。
この騎士もよく見知っているが、何か話しかけても気の利いた返事があったことはあまりない。
通路には、たくさんの灯りがある。しかし下層のように松明で照らしたほうが、明るいに決まっている。上層は壁に装飾があるために、松明が使えないのだ。
「歩きにくくございましょう。失礼ながら、私が先を歩いても?」
「ええ、お願いするわ」
ユヴァは王女として用意された服も靴も、好きではなかった。
特に靴は足が痛くなるので敬遠していたのに、貴族の家に嫁入りする人間がそれでは困ると、訓練として最近はずっと履かされている。
石畳は凹凸が少なくなるように気を遣われていたが、それでもその靴には、引っかかることが多い。きっと生まれ育った歩き方から違うのだろう。
それでも騎士の持つランタンが先にあれば、足元が見える分は歩きやすくなる。
前に立った騎士は珍しくユヴァの足元にも存分に気を配り、立派に先導を果たしていた。
いつもこうしてくれていたら見る目が違ったのにと考えたが、それはそれで肩が凝りそうだとも思った。
それくらいに騎士の様子はいつもと違っていた。
「私の部屋は、もう一つ向こうよ?」
騎士が立ち止まったのは、ユヴァの私室の隣、一つ手前の部屋の扉の前だった。
当たり前にそう言ったが、騎士は顔を向けて答える。
「いえ。恐れながら殿下のお部屋の前に、何やら影を見ました。私が確認して参りますので、殿下にはこちらでお待ちいただければと思うのですが」
「そうなの――? 誰かしら」
果たして自分は、どこを向いて歩いていただろう。
母のことや、これからのこと。不安についてなどを考えながら歩いていたユヴァには、曖昧だった。
自室の前に誰かの影があったと言われても、恐らく目に入れてもいない。
巡回の騎士が持つ鍵で、目の前の部屋の錠は開いた。
そこは近侍の騎士が控えるための部屋で、王族の私室に比べれば狭く質素だ。しかし少しの間だけ待つのに全く不都合はないし、ユヴァにはむしろそういった部屋のほうが好ましくさえ思える。
部屋の中は奥と二つに分かれているが、ユヴァは手前の部屋の窓近くにあるソファに腰かける。
それを見届けた騎士は「少々お待ちを」と言い残し、扉を閉めて行ってしまった。その時、外から錠を閉める音がした意味を、ユヴァが考えることはなかった。
騎士は部屋に置かれていたランタンに火を移していってくれたので、ユヴァの周りだけは明るかった。
窓から差し込む月明かりもあって、不自由はしない。
遠くで、賑やかな声が聞こえていた。
王女の結婚式が近いとあって、城の中でも外でも毎日が宴会だったから、そのせいだろう。
当の本人は、こんなにも不安で居るのに。
何度もため息を吐いてしまうのが自分でも嫌になって、顔を俯けて両手で覆った。
その中で息を吐くと、物理的に押さえつけているので、ため息ではないような気分になった。
ふと。
絨毯を何かが擦る音がした。
無意識に足を動かしていただろうかと見てみたが、その様子はない。
とするとあとは、この部屋にユヴァ以外の何かが居る。それに気付いて身を強張らせたと同時、後ろから伸びてきた人の両腕に抱きしめられた。
ソファ越しの腕は、ユヴァの首と胸を動かせなくしていた。肩の上を通っているので、ユヴァが腕を動かしても何をも掴むことが出来ない。
何が起こっているのか、どうすれば良いのか、混乱するユヴァの口に湿った手拭いが押し当てられた。
何やら甘い香りだが、鼻や喉の奥にツンとした刺激を感じる。
それが何かは分からなかった。しかしこのまま嗅いでいて良いものとは、とても思えない。
動かす腕に力を込めて、拘束から逃れるなり、手拭いを叩き落とすなり出来ないかと暴れようとした。
どうしたの――かな。力が……。
そう疑問に思う瞬間ごと、みるみるうちに力が抜けていく。
意識もぼうっとして、まるで自分という存在に薄い膜がかけられてしまったような気分だった。
「どうした、眠らないじゃないか」
「嗅がせればすぐだと言ったのに、あの商人め」
「でも朦朧とはしてるらしい。――おい、聞こえてるか?」
複数の声だとは分かった。でも聞こえる音も耳の中で反響したようになって、まともには聞こえない。誰の声だか分からない。
返事ではなくとも声を出そうとしたが、出来なかった。
「山の娘は奔放と聞くからな。もう何人も咥えこんでいるだろうさ」
たぶん笑っているのだろう。そんなセリフと共に聞こえた。
衣服が脱がされ、抱き上げられた――かと思うと、放り投げられた。落ちた先は、ベッドらしい。
何本の手が、口が、体をまさぐっているのだろう。それさえも、はっきりとは分からなかった。
「リマデスは偉そうだからな」
「息子の妻が犯されていることも知らないとなったら、滑稽だな」
会話の端々に、リマデス辺境伯家へのあてつけでこうしているのだという内容が混ざった。
リマデス……ブラムの家。私の夫の家。
そこが、嫌いなの――?
「リンゼ。そっちを持て」
「兄さん、名前を呼ばないでくれ。聞こえていたらどうするんだ」
「構うものか」
その名前は、血の繫がらないユヴァの兄たちの一人だった。
王子が王女を犯す。リマデス家へのあてつけであっても、そんなことが起こるものなのか。
それほどに私は疎まれていたのか。
翌朝。
ユヴァは自室のベッドで目を覚ました。
夢――だったはずはない。
体のあちこちが痛いし、寝間着もおかしな着付けをされている。
ベッドを出て、鏡を見た。
淡い色の髪。長い髪を振り乱した、知らない女が居る。
目の周り、頬の周り、首すじが赤と青とまだらに変色していた。
ブラムはこの髪も好きだと言っていた。
あまりにもざんばらになった髪に手を当ててみると、ごわごわとした感触があった。
そこにあった違和感が手に移ったので嗅いでみると、精の臭いがした。
膝から力が抜け、絨毯に膝を突いた。
「ああ――あ、ああ――あう――」
頭の中は真っ白なのに、涙が勝手に流れ落ちた。
声も何かを訴えるように、勝手に這って出た。
しばらくそうしていたのに、侍女たちがやって来ない。
そのことに気付いて、今の自分の置かれている状況に気付いて。ユヴァは諦めた。
正気で居ることを。
何かを殴りつけた経験などない拳で鏡を破り、壺を叩きつけ、床を掻きむしった。
存分に雄叫びを上げ、この世を呪った。
血に染まった両手を使って、壁に恨みを書きつけた。
私は兄に犯された。
自身の書いたその文言を見て、ユヴァはいよいよ座っても立っても居られなくなった。
割った壺の破片は、ナイフのように尖っている。
これで死ねば何もかもなかったことになる。
そう考えて、手に取った。
喉を突く。
喉を突く。
喉を突く。
皮膚が破れ、血が溢れ出た。
でもまだ死ねない。私は死んでいない。
喉を突く。
喉を突く。
喉を突く。
欠片は折れ、小石のようになってしまった。
次の破片を拾う。
喉を突く。
喉を突く。
喉を突く。
最後に突いた手応えは、自分の中の何かを切り取った気がした。
目の前が赤に染まり、湯に浸かっているような感じがした。
心地よかった。
最後の最後くらいは、いいことがあるのかと思った。
なのにそれは直に薄れ、凍えるような寒さに変わった。
森に帰りたい。
ユヴァはその寒さと絶望を抱いて、死んだ。
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