第172話:迫る者は

 姿は見えなくとも、この足音は特徴的だ。硬い蹄が地面を荒々しく蹴る音。きっとアーペに違いない。

 ペギーと似てはいるけれど大きな体に牙を持っていて、その突進力を正面から受ければ痛いでは済まない。

 ただし自己防衛以外では人を襲わないし、そもそも肉食でもないので魔獣ではなく野獣ということになっている。


「こっちに向かってますね」

「ここに来たら、晩ご飯にするみゅ」


 この状況なのだから普通は冗談と受け取るところだけれど、メイさんに限ってこれは冗談ではないだろう。

 わざわざ捕まえにいくまではしないつもりらしいが、運良く――ボクにとっては悪く、ここを通るようならば返り討ちにしようと。

 まあ――逃げ回って騒ぐよりはそのほうがいいに決まっているけれど、この音だと相当の巨体が予想されるのに、メイさんは余裕綽々だ。


「アーペと力比べをしたことが?」

「そんなのあるわけないみゅ」

「あ、そうですよね。まさかそれで勝ったとか言うのかと」


 力が強いと言ったって、それがどれほどなのか誰かが測定したわけじゃない。他の誰か、何かと比較して、メイさんが最も優れている実績の蓄積からそうとなっているだけだ。

 つまりは誰も、限界を知らない。本人以外は。


 まさか力比べをしたことがないというのは、するまでもないということか――?


 そもそもアーペになんて出くわしたくないという恐れと、多少であっても賑やかになるのは困るという焦りと、メイさんが力押しで勝つところを見たいという高揚が入り混じった。

 胸が高鳴っているのも、そのどれのせいなのか自分でもよく分からない。


 すぐにアーペの背が見えた。まっすぐこちらに向かっているように見える。

 寝そべっていたオセロトルはいつでも駆け出せるように足を伸ばし、メイさんは腕をぐるぐる回して待ち構えた。


 ――が、しかし。アーペは僅かに、茂みの向こうへ進路を外した。


「ふう――」

「来なかったみゅう」


 本当に残念そうに言って、メイさんは座り込んだ。お腹が空いているにしても、火の熾せないこの状況でどうする気だったんだろう。

 立ち上がったオセロトルの背に乗っているボクの目でも、アーペの背中を全て見ることは出来なかった。


 そんじょそこらのエコリアよりも、大きかったんじゃないか――?


 ぶると震えがきそうなのをごまかして笑おうとして、気付いた。

 メイさんの背後。土壁との間の僅かな隙間。


 そこに人影があった。


「――!」


 声を発しようとしたけれど出来なかった。それに、間に合ってもいなかった。

 ボクの首すじにも細い剣の先が突き付けられていることに気付いて、声を出せなかった。

 メイさんも後ろに居る人影がほんの一瞬、身動きしただけで地面に組み伏せられる。


「みゅみゅっ!?」

「ああ、声はあまり立てないほうがいい。無意味に傷付けることになってしまう」


 メイさんを押さえているのと、ボクに剣を突きつけているのと、それとは別にもう一人の声が小さな崖の上から聞こえた。

 その声には聞き覚えがあって、当人も焦らすことなくボクたちの間に降りてきて顔を晒す。


 どうしてここに居ると分かったんだ――。


「やあ、フラウを大切に扱ってくれているようだ。いささか過保護にも見えるがな」

「リマデス辺境伯、ですね」

「いかにも。顔を知ってくれているとは、話が早い。まずは君たちが何者か、教えてもらおうか? ユーニア子爵の手ではないのだろう」


 間近に見るのは初めてだけれど、最初に見たのと印象は変わらない。それでも強いて何か言うとすれば、少し青ざめたような顔色をしている。

 鍛えられた肉体や、精悍な顔とは不釣り合いだ。


「ユーニア子爵が邪魔をしているのは、ご存知なんですね」

「それはそうだ。俺の駒の一つだったのだからな。駒が思い通りに動かなくなったのも気付かないで、将など務まらんよ」


 突きつけられた剣とその持ち主からは、隙が感じられない。

 山賊たちに捕まった時や刃を向けられた時には、それでもどうにか出来るかもしれないと打算を働かせることが出来た。


 それが今は、指の一本――いや、まばたきをするのさえ、しても良いものだろうかと緊張を覚える。

 ボクの視界にその人物の姿は、服の端さえも捉えられていないのにだ。

 それは例えば、団長がそこに居るかのようにさえ思えた。


 メイさんを押さえている奴にしたってそうだ。

 さすがにボクとは違って全身で対処されているとはいえ、あのメイさんが身動き一つ許されていない。

 手や足がばたばたと動いているところからすると、まだ振り解こうとしているのだろう。

 でも全く、それが成功しそうには見えなかった。


「国に大きく関わっている人間でないことは分かっている。だから答えなくとも、俺は困らない。ただ答えてくれたほうが俺にも多少は得があるだろうし、君たちの命を留めることも出来るかもしれない」

「それはごもっともですね」


 鷹揚に、余裕ありげな笑みがその顔にはあった。

 でも分かる。この表情は偽物だ。本当の感情などそのどこにもない。口八丁で自分を優位に立たせようとする商人が、顔に貼り付けているものと根本的には同じものだ。


 違うのはそれをいつ脱ぎ捨てたところで、脱ぎ捨てなかったところで、自分が優位であることは変わらないと信じていて、それが事実であるということだ。


「さあ、俺はそれほど気が長くない。次で答えてもらおうか。君たちは何者だ?」


 言葉通り、辺境伯は自分の剣を抜き放った。

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