第170話:室温の記憶

 ………………あれ?

 ボクは何をしているんだろう。


 薄暗い部屋。広い部屋。窓のない壁、頑丈なだけが取り得の床……ああ、そうか。ここはボクの育った家だ。

 ここに入るのは――最後に居たのはいつだっけ?


 ああ、違う違う。ボクはここに住んでいるんじゃないか。

 ボクが生まれた家で、ボクの育った家で、ここはボクの部屋じゃないか。あれもこれも、ここにある壁や柱は幼いボクでも見覚えている。


 ボクはじっと、ここに座っていればいい。部屋の隅で、インテリアの一部であるかのように。

 そうしていれば、誰もボクに視線を向けたりしない。ボクの目の前も遠くも、忙しそうに動き回る誰もが。


 怒りも蔑みも、何の感情もない顔で「おやめください」なんて言われたくない。ボクが悪いのなら、烈火の如くに怒って殴り飛ばされるほうがまだましだ。


 それは彼らが使用人だから?

 そんなことはない。だって彼らは仲間同士や雇用主に対しては、あんなにも感情を見せているじゃないか。

 腫れ物に触るようならまだしも、どうして木偶人形に無理に話しているような素振りなのか──。


 ボクだって、突然に宙へ湧いて生まれたわけじゃない。親やら何やら、血縁者は居る。

 父親と母親と、二人の兄。ああ、弟も増えたんだった。


 ……うん? そんなに居たっけ?


 ボクの部屋。正確には、ボクはここに居るようにと決められた部屋。普通に言う子供にあてがわれるための部屋よりも、きっと数倍の広さがある。

 この部屋には使用人が数多くの物を持ち込んで、数多くの物を運び出していく。早ければ数時間。遅ければ数ヶ月から数年を一緒に過ごす物たち。


 運び込まれるのは、物だけじゃない。人間も多く運ばれてくる。と言っても人間なので、ほとんどは自分の脚で歩いてやってくるのだけれど。

 多くは刺々しい雰囲気を纏った大人だ。稀にボクと同じくらいか、もう少し上の子どもがやってくることもある。


 彼らとは、決して口を利いてはいけない。


 それがボクに課せられた唯一の約束事だった。役目だった。

 親がボクをボクと認めて言いつけた唯一つのことだったから、律儀に守り続けていた。

 そのおかげでボクは傷を付けられることもなく生きているのだけれど、それがボクの身を案じての言葉でないことも知っている。


 そういった物や人たちは、この家にとって取り扱い商品だ。

 売り捌くのであったり、どこかへ運ぶのであったり、この家に置いておくこと自体が目的のこともあっただろう。


 金銭のやりとりは、ボクの目の前でも度々行われた。それが眩ければ眩いほど、ボクは「ああ、また出かけるのか」とため息を吐く。


 恐らくそれは、手形のようなものなのだろう。商品と共に運ばれて、取引が終わるまで連れ歩かれる。

 その間も言われた通り、ボクは一切の口を利かない。問われたことに対して、首を縦か横に振るだけだ。

 だから小便をしたいと言うことも出来ずに、そのまま垂れ流す。


 手形を運ぶ者には、ボクに傷を付けずに清潔な状態で返すことが義務付けられている。

 それは取引に関わっている売り手と買い手、その仲介をしているボクの家、それぞれが危うい手段を選択しないようにと設けられた枷となっている。


 多くの場合、売り手と買い手を合わせたよりも、ボクの家の力のほうが強大だ。そうでない場合も、仮に何か下手なことを企てれば軽傷では済まない。

 だから穏便に確実に遂行するために、ボクを手形とした取引は多く利用された。


 何度運び出されて何度戻ったのか、もう数えきれない。

 でも戻る度に親のところへ連れていかれて、無事であることを確認されたのだけは覚えている。


 示された帳面を確認しながら、ボクの体に異常がないことは親が自身の目で確かめた。

 それから道中で見聞きしたことの全てを、こと細かく、根掘り葉掘り、ラトの糞の中身さえも分別するように聞かれた。


 それが終わると帳面へチェックを付けられて、ボクは退出させられる。ボクを見る目は、他の品々が贋品がんぴんでないか傷物でないか見定められているのと同じだった。


 この広い邸内で、それ以外に親と会うことは皆無と言っていい。


 下っ端の乏しい判断力で、ボクに害を加えようとする者も居た。その多くは、この部屋へ一時的に運び込まれた連中だ。

 暗黙の了解を知ってはいても、それがどれほどの重みを持つ文鎮なのか理解していない。


 ボクの目の前で、商品が加工される場面もたくさんあった。

 買い手が味見を急いた場合とか、部品での提供が望まれた場合とか。文字通りに、買い手の注文する形へと加工する場合もあっただろう。


 商品と商品が、勝手に争うこともあった。仲間割れという奴だ。

 それは特に禁止されてはいなかったけれど、たぶん金銭的なペナルティなんかはあったのだろう。

 それで血や臓物がボクにかかるくらいは、大目に見られていた。物が飛んでボクに当たったなんてことがあっても、それは損害に対する賠償という形でしか責められなかった。


 幼過ぎてそもそもの記憶がない、という時期を除くと、ボクの記憶はずっとこの部屋と手形としてのものだ。

 泣いていても、誰かにあやしてもらった記憶はない。

 使用人の仕事を手伝っても、褒められたり喜んでくれたりという記憶はない。

 物を壊したり悪戯をしても、叱られた記憶はない。

 ボクに向けられた感情を、見たことがない。


 だからボクは言われるまでもなく、誰かに何かを語りかけること、誰かに何かの感情を抱くことをしなくなった。

 それがいつだったのかはっきり覚えていないほどに、幼いころだった。


 人とは、ボクに関心のないものだ。ボクに関心を向けるのは、一部の商品だけだ。温かいとか冷たいとか、温度を感じるものは何もない。

 ボクの周りにあるのは、その時々の空気の感触だけだった。

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