第168話:黒衣の少女ー11
久しぶりに――。
いや、初めてのことだったかもしれない。
フラウが生まれてからずっと眠ったままだった、自分という存在。それが初めて目覚めたような気分だった。
たった今、現実にも眠っていたような状態だったのだろう。自分の置かれている状況がどういうものか、すぐには分からなかった。そもそも視界もぼやけている。
最後に覚えているのは、深い森の中の建物に入ったくらいまでだ。
いえ……違う。そこであの男に出会って、いつものように――それで、どうしたのだったかしら。
消えかけていた細い記憶を手繰り寄せると、それからみすぼらしい服を着せられてどこかへ移動したところまでは思い出せた。
しかしその先は、どうしても思い出すことが出来ない。
記憶がないわけではないということも、何となく分かった。けれども開くと信じている扉が持っている鍵では開かないというような感覚で、どうしてもその記憶のもとに辿り着けなかった。
「フラウ? 分かる? ボクだよ」
耳鳴りだったのか、途切れないさざ波のような音に包まれていた世界が、急に静かになった。そこに聞こえてきた声。
アビス?
求めていたものが、そこにある。それがどれほど嬉しいことなのか、これもフラウは生まれて初めて知った。
「――あ、あ!」
舌がもつれる。どうやら何かしらの薬物に侵されていたらしい。でも今はそんなことなど、どうでも良い。
誰かに助けてほしくて、それは他の誰でもなく、目の前に居る少年なのだ。
助けてほしい。助けてほしくて、傍に居てほしくて、それでも近くに居るはずのアビスの顔は見えなかった。
だからフラウは、先の見えない視界を恐れることもなく必死に手を伸ばした。そこで触った何かが、求めている少年だともすぐに分かった。
「あ、あふぃ――アビ、アビス!」
今ある力の全てを使って、アビスを自分の近くへと引き寄せた。消えてなくなったりしないように抱きしめると、体全体に重みがかかった。
顔にも何か当たっている。それはとても温かくて、胸の奥に染みわたる温度だった。
「アビス――私、私は――!」
それがどれほど嬉しいことなのか、伝えたかった。しかし舌はまだうまく回らず、言葉もこれというものが出てこない。
あなたがそこに居てくれれば、私はこんなにも嬉しくて安心できる。そう伝えたいのに。
「フラウ。大丈夫だから。もう君に何もさせないから。落ち着いて、まず水でも飲もう?」
落ち着いたアビスの声が囁かれた。前に聞いた声よりも、大人びている。
もしかして自分は、何年も眠ったままだったのだろうか。そう感じてしまうほどに違っていた。
いや、声そのものが違っているのではない。それなら最初に気付いている。アビスも自分を心配してくれて、それを表せるようになったのだ。
きっと――私がここに居るのには、アビスが危険なこともしてくれたのね。
どんなことがあったのか、心配する気持ちももちろんあった。しかし今は、自分のためにアビスがそうしてくれたのだろうと、その得も言われぬ感覚に浸っていたかった。
そうしているうちに、いつの間にか視界がはっきりしていた。どうやらここは、洞窟の中とかそういう場所らしい。
この少年と出会うのは洞窟の中と、決めごとでもあっただろうか。
「ありがとうアビス。それでここはどこ……」
水を飲ませてくれるというので起こしてくれた礼を言って、現状の確認くらいはしておかなければと辺りを見回した。
――何人か知っている顔はある。知らない顔も多い。
いや、知っているか否かは問題ではない。間違いなく、今の一部始終を見られていたことが問題なのだ。
ここはもう一度、助けてもらうしかない。頼れる少年、アビスの背中にフラウは身を隠した。
大まかな説明を聞くと、どうやら事態はとても大きな騒動になっているらしい。
そうなるに至った一因が自分の犯してきたあれこれだと理解はしたが、そこにそれほどの感慨は持たなかった。
強いて言えば、より危険な状況にアビスを置いてしまったことは悔やむというくらいだ。
とりあえず、酷く体がだるかった。体じゅうどこを探しても、痛みのないところがない。
けれどもこの痛みは、一時的なものだから心配はない。アビスが世話を焼いてくれるようなので、甘えておくことにした。
どうやらまた危ないことにもなりそうだったが、それは構わなかった。アビスと共に居られるのならば、何も文句はない。
ふわふわとした体毛の獣に乗せられて移動するのは、気持ちが良かった。アビスとロープで繋がれているのも、絶対に離れないと意思表示しているようで嬉しかった。
何かしら。嬉しいのは間違いないけれど、難しいことが考えられない。まだ頭がはっきりしていないせいかしら――。
移動した先でどうやらアビスたちは、鎧姿の男を尋問しているらしい。
アビス。アビス――。
その言葉があれば、一生を生きていける。フラウの心は、そんな気持ちで満たされつつあった。
「フラウ!」
遠くで発せられたその声が、フラウの頭を――いや、その中を直接に殴りつけたような気がした。
痛みということでなく、酷く揺さぶられたような。それと同時に、アビスに抱いていた気持ちがみるみる密度を減らしていった。
それを明確に感じたフラウがどれだけ意識の手を伸ばしても、引き留めることが出来なかった。
「フラウ! そこに居るのだろう!」
視界がぼやけてきた気がする。どちらが地面だっただろうか。震える体がアビスに触れていることだけは、なんとか分かった。それが救いだった。
しかしその感覚も、間もなく消えた。世界が闇に染まって、その中にある一本の道だけが見えた。
闇にあって、なお見分けることの出来る影。その道はそんなものだった。
足はひとりでに、その道を歩いて行こうとする。
駄目。これは駄目。これを行けば、もう戻れない。
理由もなく、直感としてそう思った。
渾身の力を込めて足をその場に留めて、そうしているのが現実の自分なのか、意識の中でそう思わされているだけなのか、その区別もつかなかった。
――どれだけそうしていたのか。一瞬だったかもしれないし、何時間もだったかもしれない。
フラウの足元から、背後から、むくむくと黒い地面が盛り上がった。
「あ、ああ――」
黒く、笑っている。
影。人の影の形。
子供たち。
私が死なせた。
私が殺した。
「わあああああああ!」
絶叫が響いた。
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