第121話:崖の底

「はあ……はあ……」


 ボクの荒い息が、ボクの耳にうるさい。息が切れているのに間違いないが、その理由は激しい運動ではない。


「あそこから――」


 見上げても霞んでしまって、どこから降りてきたのかはっきりとは分からなかった。遥か彼方、雲よりも上に、先ほどまで居た場所がある。


 胸がドンドンと、中に大きな太鼓でもあるような音を立てている。


「ふう――」


 メルエム男爵は、もう息を整えたようだ。数歩先で待っているトンちゃんとコーラさんに「待たせたね」と声をかけた。


「いや、上出来みゃ」

「それはどうも」


 何日もその姿で居るせいか、コーラさんは口数が少ない。特徴的な喋り方を抑えるのが苦しいので、いっそ喋らない方向のようだ。


「もう、近いんです?」

「この森の真ん中辺りみゃ」


 やっと落ち着いて、トンちゃんの言った「この森」を見た。


 既にその森の端に居るので、俯瞰することは出来ない。木々は深く、先を見通すことも出来ない。手入れなどされていない、真っ暗な森だった。


 逆に見上げてみたほうが、環境くらいは感じ取ることが出来た。

 ボクたちの降りてきた傾斜――崖も含めて、ぐるりとすり鉢状に山が取り囲んでいる。


 すり鉢の向こう側の崖まで森が続いているとすると、このメンバーの脚でもそれなりに時間のかかる大きさはあるらしい。


「罠はないと思うみゃ。でもウチが来たのは随分前だから、気をつけるみゃ」

「心得たよ」


 罠はなくともこれだけ山奥ならば、何かしらの獣は居るだろう。さすがにこの地形で魔獣は居ないだろうけれど、凶暴な野獣くらいならば居てもおかしくはない。


 それにワイヤーを張るくらいなら、すぐに出来る。昨日なかったものが今日はあるなんてことは、しょっちゅうなのだ。


 男爵にその辺りを見つける心当たりはないだろうから、ボクが見ておかないと。


 ――案の定、ギルンに似た野獣を見つけた。彼らは種類が多いので、具体的にどれとは分からないが。

 一匹だけだったので、これはコーラさんが捕まえた。と、すぐに離してしまう。


 ギルンが威嚇もせずに逃げ出したのを見て

「特に何かしたでもないようだけど、どうしたんだい?」と男爵が聞いた。


「話せば分かる奴でした」

「ほう、それは頼もしい」


 団長がギルンと話せるというのは聞いたことがないが――男爵も冗談と受け取ったらしく、その話は笑って終わらせた。


 たぶん実際には、一時的な恐怖を与えたのだろう。根拠のない恐怖で、強いていえば木が揺れるのを幽霊と見間違えたくらいのものだと聞いたことがある。


 それ以降、結局のところは何もなかった。

 藪を見通した先に集落が見える場所まで来て、一息ついた。


「トンキニーズさんの言った通り、何もありませんでしたね。ずっとこの態勢なんだとしたら、油断しきっているのかもです」


 自分なりの分析を述べたつもりだった。何年もの間、何の警戒もしていなくて何も起こっていなかったとすれば、誰だってそれが決まりごとのように考えてしまうものだ。


「何言ってるみゃ」


 冷たい目で、否定された。

 間違っていたのか。警戒していないことに対して、ボクはどう勘違いをしているのだろう。そう反省しかけたが、それさえも違っていた。


「ワイヤーが張ってあったみゃ。三カ所みゃ」

「そうなんですか……」


 全く気づいていなかった。男爵も「へえ」と言っているから、この二人が意識しなくて済んでいるということは、機能しないように解除したということだ。


 いつ、どこで、いつの間にそれをしたのか。

 今ここでそれを悔いても、どうしようもない。それでも自分の未熟加減に、悔しさが溢れる。


「要は目的を果たせればいい」


 干し肉を齧りながら、コーラさんが言った。誰かさんの表情そのままに、気楽そうに笑って。


「出来ないことがあったら、あとで教わればいい。今はどうやって姫君を助けるかじゃないかな」


 たぶんこれは、コーラさんが続けて言いたかったんだろう。でもそれを、そっくりそのままメルエム男爵が言った。


 コーラさんは愉快そうに笑って、果実酒をぐびっと飲んだ。


 ――それから食休み程度の休憩を取って、その間に作戦も立てて、行動を開始した。作戦と言っても、全く以て単純なものだったけれども。


 ボクは男爵と一緒に、外を見張る。単独行動の人間が居れば、捕らえて身動きできなくしておく。


 その間に、コーラさんとトンちゃんがフラウの居場所を探す。


 これだけだ。


 二人と別れて、男爵と集落に向かって少しずつ進む。フラウの育った場所。フラウが忌むべき場所。


 現実的でなかったレリクタという名に実像が付いて、ボクの中でも特別な意味を持ち始めた。

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