第120話:男爵は笑う
いつしか周りから、背の高い樹木は消えた。それだけ高い場所だということだろう。
「何だか息苦しいですね」
「高い山はそういうものみゃ」
何日目かに合流したトンちゃんは、そう言いながらも全く息を切らしていない。対してボクは「へえ、知りませんでした」と言うのも少し息が途切れていた。
「静かにゆっくりと呼吸することだね」
尾根を外れて、一定の高度を進む。メルエム男爵のペースは逆に上がって、ボクを置いていく勢いだ。
「私は仮にも海軍の人間だからね。無呼吸で泳ぐ訓練だってしている」
「そんな訓練があるんですね」
納得しかけたが、関係あるんだろうか?
「ところで聞きそびれていましたけど、どうして山登りをする必要が?」
「そこに山があるからみゃ」
「ええ……」
いや、コーラさん。親指を立てないで。
「街道側からは行けないんです?」
「行けるみゃ。普通はそっちで行くみゃ」
「ええと――」
じゃあどうして面倒な方法を取るのか、なんて聞くと、また馬鹿にされるに違いない。ここは慎重に返答しないと。
何か罠でもあるというのが、よくある話だろう。でもそれを言うのも安直過ぎないか……?
「あちこち罠が仕掛けてあるに決まってるみゃ。そんなことも予想がつかないみゃ?」
「そうですよね、すみません」
答えるのが遅すぎた。判断が遅いのも自分の死に繋がると、そうも教わっている。
「なかなか厳しいね」
「自分一人で判断出来なきゃ死ぬだけみゃ。世間は甘くないみゃ」
そう。トンちゃんが厳しく言ってくれるのは、経験の浅いボクに知識や心構えを叩き込んでくれている。甘ったれて育ったボクに、一人でも生きられる術を教えてくれている。
トンちゃんは急にコーラさんを追い越して、列の先頭に行った。顔を真っ赤にしているのも、ちらと見えた。
ボクを教育してくれているんだと言ってしまって、恥ずかしくなったらしい。
――それから、同じ高さを歩き続けた。行く先は普通の集落と変わりないはずなので、いつ下りになるのかと思っていたのに。
「ここから降りるみゃ」
「ここ………………です?」
下りではなく、降りる、だった。
どうだ驚いたかというような、挑戦的な顔のトンちゃんが言う先には、断崖絶壁と言って差し支えないくらいに急な傾斜があった。
「降りられないことはない――か?」
メルエム男爵も降りる方法を検討して、最後に挫けたらしい。
いや、言う通り降りられないことはないのだ。垂直に切り立っているのでなく、あくまで下り坂だし、途中で速度を殺せる足場もある。
しかしそれを、麓の高さまで繰り返さなければならない。
足取りを間違えて足場に辿り着けなかったり、それこそ小石に一つ躓くだけでも命取りになる。それが問題だった。
「ここの降り方なんて、説明して出来るものじゃないみゃ。出来なきゃ置いていくまでみゃ」
「だそうだ」
トンちゃんとコーラさんは、そう言い残して先に行ってしまった。
その姿をボクはメルエム男爵と並んで、唖然と見送る。「すごいな」と男爵は見蕩れさえした。
「だが――ここでのんびり待つなど、出来るわけがない。ここに来た意味もない」
お手本を見せてもらって、踏ん切りがついたのだろうか。男爵は腰にある剣を鞘ごと外して、手に持ち替えた。
「先に行くよ」
昼食のあとにまた会おうとでもいうように、気楽な感じで手が振られる。男爵は迷いなく、最初の足場へと下っていった。
でもボクは知っている。
この傾斜を見た最初に、男爵がごくりと唾を飲み込んだのを。
高いところが得意とか苦手とかそんなことは問題にならない、失敗すれば死ぬという絶対の事実を見て、少なからず恐れを覚えたことを。
「あなたはそれでも笑うんですね、フラウのために」
きっと男爵は、ここに来てはいけないのだ。ウィルムさんよりも、ずっとずっとまずい立場になっている。そう臭わせることは何も言わないけれど、分かる。
確かにあの人は何でもこなしてしまうすごい人だけれど、嘘は苦手みたいだ。
置かれた立場に比べればこんな崖など、どうということもないってことか。
騎士ってすごいなあ――ボクには絶対に務まらないや。
「でもね、ボクもフラウが好きなんですよ。そこだけは負けられないんですよ」
大きく、ゆっくりと深呼吸をした。
それからボクは、最初の足場に向かって足を踏み出した。
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