第115話:傍に居るために
聞いていた通り、予想以上に、岩盤回廊は難なく通れた。言ってみれば完全に外壁の外なのだけれど、信用度はかなりのものらしい。
ワシツ邸の中にも、問題なく通してもらえた。もう顔を覚えてもらったみたいで、連れは誰かと聞かれただけだ。
「どうしたんです? この人」
「問題ないと言っているのですけれどね。どうも立ち直れなくて」
トイガーさんと一緒に通されたのと同じ部屋に、ワシツ夫人ともう一人の男性がボクたちを迎えてくれていた。
その人は部屋に入ってくるのも座るのも、ずっと暗い顔をしていた。何か忙しく考えごとをしてもいるようで、何やらぶつぶつ言いながら、時に頭を抱えている。
「ほら、あなたを訪ねていらっしゃったのよ。挨拶くらいなさい」
「あ、ああ――はい。
いや誰だか知らない人を訪ねるなんて、器用な真似は出来ないけれども。でもこの人は、ワシツ夫人を義母上と呼んだ。それなら誰だか予想はつく。
「すまない、悩みの種が多くてな。俺はウィルム=オニグル。君たちには、イルリの夫だと言うのが分かりやすいのだろうな」
「あなたがそうなんですね。お世話になっています」
気を取り直せば堂々としていて精悍な、立派な騎士という雰囲気が見えた。逆にそんな人が、何をそこまで悩むものか不思議に思う。
「こちらこそだ。それで戦況を知りたいということだが、おいそれと一般市民に教えられるものではない」
「分かっています。でも教えていただけないと、ボクたちはこの国を歩くことが出来ません」
「当たり前だよ。歩かせないために制限しているんだ」
分かってはいたことだけれど、頑なに拒まれた。言い方は柔らかかったけれど、言葉の上では差し挟む余地がない。難しい交渉なんてほとんどしたことのないボクは、これだけでもう手詰まりだ。
その横で団長――コーラさんが、トンちゃんに耳打ちをしていた。
「じゃあ、交換条件といくみゃ」
「交換? 何をだい」
「あんたが今、困っているのをどうにかしてやるみゃ」
トンちゃんがそう言った途端、今度はウィルムさんが言葉に詰まった。しかしさすがすぐに平静を取り戻して、会話を続ける。
「どうにか、とは?」
「あんたはワシツ将軍の伝令みゃ。それがどうしてこんなところに居るみゃ? 将軍は敗走して、今はどこでどうしているか分からないみゃ」
口と顎を押さえて、ウィルムさんは俯きかけた。しかしそれを、隣のワシツ夫人が肘で打って起こさせる。
「――その通りだ。俺はこの一大事に、何の因果か妻の実家に来てしまっている。いや、俺のせいなのだがな」
そこで一度言葉を切って、ウィルムさんは大きく息を吸った。
「俺のこの身は将軍のお言葉を伝え、将軍に情報をお伝えするためにある。そのためには、俺が最もお傍に居らねばならんのだ。僭越ながら、妻である義母上よりもだ。それをどうにか出来ると、そう言ったのか!」
その気迫は、ワシツ将軍がイルリさんにかこつけて言っていたような、不埒な人ではなかった。
そうだ、肝が太いと言っていた。つい数秒前までの姿からは全くそうと思えないけれど、今の姿からは容易に理解出来る。きっとこの人が戦場に居たなら、どんな場面でもきっと役目を果たすだろう。
そう感じさせられた。
「あんたを、ワシツ将軍のところに送り届けてやるみゃ」
ぴんと、緊張の糸が張った。こちらの要望を通すためとはいえ、そんなことを言っていいのかと、もちろんボクも緊張した。
しかし同じくウィルムさんに張ったそれは、すぐに解ける。
「それは――俄かには信じ難いが、本当に出来るのか。ワシツ将軍の居場所を知っているというのか」
「今は知らないみゃ。でもすぐに調べてやるみゃ」
知っていると、なまじ言わないのがいかにも信頼度を高く見せていた。
ウィルムさんが何に悩んでいるのか、こうして言われてみれば分かって当然の簡単な話だ。でもその解決は簡単ではない。
敗走して生きているのなら、現地では色々動きがあるのだろう。でもここは遠く離れた、首都リベインだ。それが伝わってきて、それから駆けつけても何もかもが遅い。
もしかすると責任を負って斬首、ということもあるのかもしれない。そうなればウィルムさんに選択肢はない。
「分かった――信じてみよう」
コーラさんは最初から微笑んだまま変わらず、トンちゃんはにやと笑った。ボクも喜んで「じゃあ!」と身を乗り出そうとして、手で制された。
「いや、ちょっと待ってくれ。交換条件だけで君たちに情報を与えては、俺の判断を疑われる。義母上に全て聞いてはいるがな。せめて君たちの口から、どうして今この国を歩きたいのか教えてくれ」
真摯な目だった。最近どこかで見た、人を陥れることしか考えていないような、卑しい男の目とはまるで違う。
もちろんボクが妙なことを言えば、交換条件など反故にして「教えてやれるものか」となるのだろう。
ごくりと唾を飲み込んで、ボクは口を開く。
「エリアシアス男爵夫人――ボクはフラウと呼んでいます。ボクはフラウの傍に居られなかった。フラウもボクの傍に居てくれたわけじゃなかった。でもそれは、お互いに事情があったからだって分かったんです」
言ってみて、今のウィルムさんに話すにはずるい言い方だと思った。でも正直な気持ちだった。
「だからって何か変わるかどうかは分かりません。でも確かめたくて――ボクはフラウの傍に居ていいのか。傍に居たいんだって言いたくて。でもそのためには、今居る場所からフラウを助けてあげなくちゃいけないんです」
たったそれだけを言うのに、息が切れた。
はあはあと息を整えている間、左右の手を組んだウィルムさんは、親指同士をトントンとぶつけ合ってそれを見つめている。
ボクの呼吸も落ち着いて、おもむろにウィルムさんは言った。
「男爵夫人の今居る場所とやらは、どこなんだい?」
その質問にはワシツ夫人も視線をしかと向けて、ボクを見る。何と答えたものか、ほんの僅か悩んで言った。
「今は分かりません。でもすぐに調べてみせます」
緊張の汗をかきながら言ったセリフに、ウィルムさんは笑う。静かに、もしかしてすすり泣いているのかと思うほど静かに。
「ふっ――ふふっ。分かった。話に乗ろうじゃないか」
差し出された手を、ボクはしっかりと握り返した。
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