第87話:若き日の二人
「すみません。それは待ってください」
さすがに、保留を願い出ずにはいられなかった。
出来るか出来ないかで言えば、おそらく出来る。しかしそれは、今ここでボクが勝手に返事をしていい限度を超えている。
するとワシツ夫人は「他ではそもそも出来ないのだから、仕方ないわ」と、あっさり待ってくれた。
「ただし」
と。何も交換条件になっていないと思うのだが、昼食ばかりか夕食まで、たらふく食べていくように言いつけられた。
先ほどのコムさんが見せた笑みは、このことか。
うちの内情にしろフラウのことにしろ、言えないことの多い身でそれは歓迎しかねた。
しかし間違いなく厚意で言ってくれているものを、無下に出来るボクでもなかった。
遠い異国の料理だという昼食も、暇つぶしの
まさかワシツ将軍に妬かれて突き殺されないか、割と冗談ではなく懸念もした。
あとあとになって口説いたなどと言われることもないよう、言葉も選りすぐって発した。
「どうも緊張がとれないわね。私が相手では、楽しめないかしら」
夕食を本当にたらふく食べさせられ──頂戴して、食後に夫人は本格的にお酒を飲み始めた。
「そんなことはないです。決して」
決してと言ってしまったのは、失策だった。夫人は真面目くさったボクをだろう、吹き出して笑う。
「夫はね」
唐突に、夫人は言った。
将軍がどうしたのか、ここまでそんな話はしていなかったから訝しむ。よもや不安的中かと頭を過ぎったが、そうではないらしい。
「真面目で、面白味のない人だったわ」
「昔の話ですか」
将軍がもう死んだような言い方にも聞こえたので、まさかありえないがと聞き返した。
「ええそうよ。私が叙勲されて、二つ目に配属された部隊の先達だったわ」
そんなに前の話か。それは将軍の性格だけでなく、今とは違うことも多々あるだろう。
どうやら夫人は、思い出話を聞かせようとしてくれているらしい。
そもそもボクも、将軍を敬愛する者の端くれではある。興味がないはずもなく、傾聴することにした。
「食事の度に『生きることは食うことだ』とかなんとか、もっともらしく言っていて、なんてつまらない人だろうって思っていたわ。
私が女の騎士だったから、馬鹿にしていたのかもしれないわね。ちょっとした悩みを相談したら『退いて、結婚でもしろ』って言われたもの。
おかげで、誰が辞めるものですかって思えたわ。
焚きつけた? それはないわね。次の日から、ずっと訓練の相手に指名したの。そうしたら、困った顔をしていたもの。
北の森に魔獣の群れが出た時には、討伐に志願したわ。やっぱり同じ隊だった。
私たちの隊が先頭になって魔獣を追い詰めて、一網打尽に出来そうだったの。そうしたら、後続の部隊から悲鳴が聞こえ始めた。
追い詰めていたつもりが、魔獣の群れの真ん中に誘い込まれていたわ。彼らのほうが頭が良かったのね。
魔獣たちのリーダーなのか親なのか、ひときわ大きな個体が居たわ。そいつは口から火を吐いた。
逃げ道を塞がれて、仲間も散り散りになって、食われる姿もたくさん見た。
一対一では敵わないから、逃げるしかなかったわ。でも魔獣たちと炎とに囲まれて、逃げ場はなかった。
何とか近くに居た五人くらいで固まって、魔獣の間をすり抜けていこうということになったわ。
私と、もう一人が先頭で、隙間を狙って突っ込んだ。
それはもう、運の問題だった。私の隣を走っていた仲間が、引き抜かれた雑草みたいに飛んでいったわ。
後ろを見る余裕なんてなかったから分からないけど、私も含めて二、三人は囲みを抜けられたんじゃないかしら。
少し離れてからやっと振り返ってみると、魔獣たちは逃げ出した私たちに興味はなかったようね。だってまだ逃げまどっている仲間が、たくさん居たのだから。
見捨てていけるのかとか、そんな葛藤はなかったわ。一対一でも敵わないのに、魔獣の数が多すぎた。私はとにかく魔獣たちから離れたわ。
尾根を越えて、ほっと一安心したの。立ち止まって少し休んでいたら、きな臭い臭いがして、次の瞬間には周りが炎だらけだった。
私が逃げた方向は、どうも風下だったらしいの。
もうどちらから来たかも分からなくなって、さすがにこれは無理だと諦めた。でも今、私は生きている。どうしてだと思う?
そう。あの人が助けに来てくれたの。
あの燃え盛る木々の間を、私に向かって一直線に走ってきたわ。『集まれるだけ集まって、退避したんだ。そうしたらお前が居ないじゃないか。だから助けに来た』って。
でも私は言ったわ。『来てくれたのは嬉しいです。でもこんな中からどうするのです? 道連れになるだけではないですか』とね。
そうしたらあの人、『約束しよう。お前を傷つけるものは、炎だろうと魔獣だろうと、全て私が切り伏せる』なんて言うの。
そこで私も感動すれば、可愛げがあるのだけれどね。『何て馬鹿なことを。出来ることと出来ないことがあるでしょう』って言ってしまったわ。
でもあの人は笑って『ついてこい』とだけ言った。
それから本当に、炎も魔獣も全て追い払って逃げ延びたの。そんなことされたらね、私も『参った』って言ってしまうわ。
そう思うでしょう?」
惚気話には違いなかった。
だから夫人は終始、幸せそうな笑みを湛えていた。けれどそれだけではなく、その眼差しに夫を誇りに思う気持ちが満ちていた。
「そう思います。すごいお話ですね」
答えると、夫人はますます嬉しそうに笑って言った。
「魔獣の群れの向こうに逃げていた私を、夫はどうやって見つけたと思う?」
「ううん、何かそういう宝物を――いやそれはないか。分かりません」
夫人はまた吹き出した。今度はボクにではないらしい。
「それがね、酷いのよ。お前は向こう見ずで単純だから、真っ直ぐ進めば居るだろうと思った、ですって」
「それは酷いです。でもそれで見つかったんですよね」
話す度、夫人の目に爛々と活力が宿っていく。それは酒のせいなどではない。
「そうなのよね。だから文句も言えなかった。それにね、それから夫は私との約束だけは破ったことがないの」
本当に、すごい話だった。あの有名なワシツ将軍にそんな逸話があったとは、きっと誰も知らないに違いない。
話の内容にも、その事実にもボクは興奮した。同時に、どうして夫人がそんな話を突然に聞かせてくれたのか、その理由も何となく分かった。
その確認はしないまま、ボクはその夜遅くまで夫人と語り合った。
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